松原がヴァルガス大統領からの移民導入許可を携えて、1952年11月に日本に赴くという報道が流れた時、《コロニアの元老達は「松原は何者ぞ」と慌てふためいた。早速元老達の会合が召集された。急報に接して集まった顔触れは、海興の宮腰、東山の山本、ブラ拓の宮坂、コチアの下元等の諸氏だった》『志村啓夫文書2012』(岸本晟)、278~287頁)
著者の志村啓夫は、松原の遠縁でなおかつコチア職員という立場から、下元家に呼ばれた。その会合の二日後の晩だった。《松原の人物、事業状態、大統領との接近の理由等に就いて説明が求められた。私は松原安太郎の遠縁であり、松原の耕地の隣地に耕地を経営していた関係上、知っている範囲の事を、相当詳しく逐一説明した》とある。
その情報を元に、再び元老の会合がもたれ、《全員が一番懸念したのは、折角移民導入枠を取得したものの、松原に経験もなく、また受入れ組織もできていないところだった》となり、《現地に経験豊富な拓殖組合もある事であるから、まず松原本人に会って、計画構想を確かめた上で、特別に組織的準備や構想がまとまっていない場合、我々の方から計画案を提出することを決議した》となった。つまり、松原に追随することになった。
交渉代表に選ばれたのは宮坂国人で、松原が訪日した一週間後に、日本へ向かった。帝国ホテルに宿泊する松原を訪ね、《移民枠の譲渡又は合弁の意図の有無を話し合った》が、《ゼツリオ政権下で受入れ組織や運営に必要な援助が約束済みである以上、独自で全てが解決できる…と軽く考えていたと思われる。このため受入れ組織に関する全ての条件がしばらく平行線を辿り、何らの合意も、歩み寄りもみられず、提案は全て拒否され物別れになった》という顛末を辿った。
これに関し、志村は《これは移民導入時の秘話で一般には公表されなかったが、著者は松原に関する情報を提供した関係で、下元氏より当時の交渉の模様を知ることが出来た、数少ない内の一人と思っている》と記す。
この頃、松原は横浜正金銀行の支店長・大谷晃と知り合い、リオに行くたびに顔を合わす親しい仲になった。大谷は、戦争中に敵性国資産として凍結された資金を解除するためにブラジルに踏みとどまっていたが、交渉は捗っていなかった。
大谷も松原の移民事業に興味を示した。その結果、二人は、資金凍結解除に時間がかかるなら、その資金を一時的に移民事業に流用することを考え、《早速ゼツリオ大統領を訪問して凍結資金の一時流用を請願した》とある。
松原は当時ドウラードスやリオ・フェーロ、ウナなどでの移民への貸付けや事業費に困っていた。一縷の望みが、この凍結金だった。喉から手が出るほど資金が欲しく、無理を承知で頼み込んだのだろう。
だが、ヴァルガスはこれに関しては《凍結金は国際法規上流用には問題があり、国交が回復した今日、一日も早い解除が迫られている関係上、移民事業に流用する事は不可能である》と拒否した。
事実、戦後初の君塚慎大使が1952年9月に着任し、資産凍結解除に向けて交渉を進め、実現まで秒読み段階に入っていた。いくら松原の頼みでも、解除になった時に「流用されて金庫は空」ではブラジル政府のメンツが保てない。ヴァルガスも譲れない一線だったに違いない。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)
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