松原の日本移民再導入が許可された時、《これはコロニア内で態度不明だった新聞(編註=戦勝派新聞のこと)も朗報として大々的に報道した。戦勝論者の中から「移民導入不要論」の噴煙が揚がるかと思ったが、不思議な現象で、彼らは松原構想を大歓迎したのである》『志村啓夫文書2012』(岸本晟編集、278~287頁)という不思議な現象が起きた。
負け組だった志村からすれば「日本が戦勝したと言うなら、ブラジル移民を再開する必要はないはず。戦勝組は反対するに違いない」と考え、奇異に見えたようだ。
広島で被爆体験したウーゴ・ラサル神父が法王庁から勝ち負け抗争調停の特命をおびて、1947年7月に帰伯講演会を行ったが、志村は《戦勝信奉者達は、耳を塞いでそれらの話を聞こうともしなかった。それにもかかわらず戦勝した筈の日本から、ブラジルに移民を導入という事に何の矛盾も抱かず、松原安太郎の快挙として沸き立った~》と記した。
でも、戦後移民が始まったことで結果的に《これに依って信念組の日本への総引き揚げ論は夢物語となり、移民再開の報で変身の正体を表した…といえる》(同文書)となった。
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1953年、移植民局が松原に多額の賠償金を請求した裏には、反ヴァルガス派の策動があったとの説もある。
というのも、まさにその年の8月、松原移民を支援する立場のヴァルガスも最大の窮地に立たされていた。政敵ともいえるジャーナリスト、カルロス・ラセルダの暗殺未遂事件が起き、その殺し屋への謝礼に松原の金が関係しているとのスキャンダルに発展した。カテテ宮の寝室でヴァルガスがピストルで自らの心臓を撃ったのは54年8月24日。
移民再開の1年後のことだった。祐子さんは「実際に移民が到着して、さあこれからという時に、大統領は政治的圧力によって自殺してしまった」と惜しんだ。
ヴァルガス自殺一カ月後の1954年9月30日付パ紙には、左カタに大きく《トネレロ事件と松原安太郎氏の「金」》という見出しが踊る。グローボ紙の記事を翻訳して、以下のように紹介している。
《ヴァルガス大統領の自殺にまで発展したカルロス・ラセルダ記者の暗殺未遂事件に松原安太郎氏の名前まで飛んで出、その懐から出た金がいわゆる「ピストレイロ」(編註=殺し屋)たちにばらまかれた形跡があるというので問題になったが、リオのグローボ紙は最新の特集号でその「全貌」を次のように報じている》と紹介した。
同パ紙は、松原がヴァルガスに伯銀からの融資を依頼し、《松原氏の代理人アルキメデス・マニヤンエス》が大統領私設護衛隊長グレゴリオらと話して、借り出した金の一部をグレゴリオに手渡した。大統領の不正を執拗に追及していたカルロス・ラセルダ記者の暗殺未遂事件が起きた時、《逮捕された犯人の口から人殺しの謝礼金としてグレゴリオから金を貰ったことが明らかになった。この金が松原氏から出ていることは勿論である》と報じた。
同パ紙記事の最後には、ライムンド・パジーリャ議員が語った《結局トネレロ街におけるカルロス・ラセルダ記者暗殺未遂事件にはヴァルガス大統領の裁断によって伯銀から融資を受けた金の一部が人殺し謝礼金として使われていることは明らかな事実である》との言葉まで挙げている。
今も人気の高いカリスマ大統領ヴァルガスが自殺し、その余波をもろにくらって松原も反対派から政争に巻き込まれた。先週末の日曜(24日)は、その自殺からちょうど60年目だった。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)
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