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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=2

 小南ミヨ子女史をいまも先生と慕い、遺影に手を合わせている写真には、六十歳半ばから七十歳ぐらいの女性ばかりが映っている。これがブラジル青年移民へ花嫁として送り出された人達の現在の姿である。
 この花嫁達には「ブラジルききょう会」という会があり、会長の大島順子は六十三歳で神奈川県出身、現在はミナス州カンブイに在住している。「ききょう会」の数人と私は個人的に交際があるが、幸せの多い道のりばかりであったと言えないにもかかわらず、その花嫁達には先生、小南先生と強く慕う気持ちが共通している。何故ここまで尊敬され慕われているのか、その経緯を邦字新聞「ニッケイ」の記事と「サンパウロ新聞」の記事から一部を書き抜いてみよう。
 ミヨ子女史の夫、小南清教授は一九五四年にパリの国際細菌学会へ出席し、ミヨ子女史もこれに同伴して七ケ月間の欧州旅行をした。実はミヨ子女史自身も五十歳で論文を書き、博士号をとった医学博士であった。その帰路に乗船した「ロンドン丸」の船長から、南米移住青年の結婚相手を探すことの困難さを聞き、同年「海外移住婦人ホーム」を設立したのである。
 移住青年に花嫁を送るために夫妻は自宅を開放し、毎月一回、南米を勉強する例会を開催し、現地生活の経験のあるJICAや外務省の人を呼んで講演をしてもらった。この例会が雑誌などで紹介されて参加者が増え、本格的な花嫁派遣事業に繋がったようである。
 一九八六年に出版されたミヨ子女史の著書「海外に飛び立つ花嫁たち」(講談社)にその経緯が詳しく書かれている。「移住婦人ホーム」(以下「ホーム」とする)は一九七五年七月まで三十回続き、同年六月に外務省の協力で財団法人「国際女子研修センター」に改組したとある。「ホーム」では「よき日本の躾」を身につけさせる花嫁修業を行い、その教えのひとつが「倹約と工夫」だったと記されている。「家庭が円満にいくのも妻の『知恵』しだいです。家庭生活でも社会生活でも大切なことは、無駄を省き、ものを大事に使うことにほかなりません。水を倹約できない人はお金がたまらないのです。また火を無駄に使ってはいけません」ミヨ子女史の母上が、氏にいつも厳しく諭した言葉を、そのまま花嫁達にも教えたそうである。
 
 ミヨ子女史がブラジルへ送り出した花嫁たちの機関紙「ききよう会報」によれば、一九七九年十二月、既に十三ヶ国へ三百人の花嫁が渡り、ブラジルは約二百人とその大半を占め、次がアルゼンチンで四十四人、カナダへ二十一人などとなっている。ききょう会会長の大島純子の推計では、八十年代には全部で七十人ぐらいが渡ったと見られ、総計三百七十余人にも上るようだ。
 ホームでは、「まだ食糧難の時代だけど、大きな大福が出たのよ」と、六十四年に渡伯した第二回生の北山良子は懐かしそうに話す。大島純子は「ジャガイモの皮のむき方が厚い」とよく叱られたと当時を思い出し、またある一人は、「先生がどこからか集めてきた布切れを使い、人形の作り方を教えてくれたのだけど、それが此方へ来て役にたったのよ。とにかく、山の中で子供が生まれても、玩具ひとつ買う店がなかったから、手作りの人形で遊ばせてさ」と言う。
 「ブラジルに行ったら何もないのよ」と、南米での生活に必要なことをセンターで教えたと聞くばかりで、花嫁を送らんがために甘い言葉を使ったという話は誰の口からも出てこない。