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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(21)=日本の国会でも松原議題に=大谷晃に引継がれた移民枠

州別の松原移民枠で入った人数の表(『移住研究』24号、20頁)

州別の松原移民枠で入った人数の表(『移住研究』24号、20頁)

 実は、松原に関わる移民政策が日本の国会でも議題になった。病身の松原が和歌山に帰郷する直前、第22回国会の内閣委員会(1955年6月16日)の議事録によれば、次のようなやり取りがあった。
 内閣委員会の田畑金光は、6月13日付朝日新聞にでた《松原安太郎氏が、結局移民の計画に失敗をして近く帰国をする》との記事を持ち出し、《こういうような問題についてどのように処理されようとされておるのであるか》と外務省の考えを、政府委員の矢口麓蔵に質問した。
 矢口委員はこの記事に対し《相当信憑性もありますが、相当誇大に報告されておる点もございます》とし、本来は日本政府がすべき移民政策を、松原個人が肩代わりした形になったことによる負担を弁護する答弁をしている。
 同議事録によれば、《政府の移民政策を彼(編註=松原)が負担することによって生じたマイナスと言いまするのは、御指摘の通り、移民早々、送り出し早々にウナ事件のおいて、いったものの質がよくなかった関係上、ストライキとなって脱耕して、その責任を全部松原氏がかぶせられるような結果になったのであります。それで場合によってはこの四千家族のコンセッションを取り消されるような情勢になりまして、われわれといたしましては種々苦慮したのでありますが、辛うじて昨年の末にこの損失だけは政府においてカバーいたしまして~》。つまり、松原が生前に請願した通り、ウナの賠償金の残り半額は、1954年末に日本政府が負担し、松原移民枠を維持した。
 その際、戦前に横浜正銀リオ支店に勤務し、志村文書によれば松原と一緒に同銀の凍結資金を移民事業に流用する計画を練った大谷晃が、松原の死後、松原枠の「特許人」(Concessionario)として移民受け入れ業務に携わった。州や郡が日本移民受け入れを要望した場合、移植民審議会が直接処理するのでなく、その要望書を特許人に回すと言う形になった。
 『在伯日本人先駆者傳』(パ紙、1955年、451頁)によれば、大谷晃は1947年4月、リオに母国戦災同胞に救援物資(ララ物資)を送る救援会を立ち上げた一人で、同会の副会長に選任された。住んでいたのはリオだが、実は、同じくララ物資集めに関わった〃コロニアの元老達〃と近い人物であった。
 大谷は終戦直後から日本からの呼び寄せに先鞭をつけ、松原の死後は、その枠を使って呼び寄せ事務を行った。《終戦後、初めて邦人移民を誘入せし松原安太郎氏のために、毀誉褒貶を外に、協力を惜しまざりし大谷氏の侠義も亦、記憶さるべきである》(同『在伯日本人先駆者傳』と記されている。
 つまり、悪名の部分を一身に背負って松原が必死にこじ開けた移民ワクは、彼に「移民枠の譲渡又は合弁」を申し込んで断られた〃コロニアの元老達〃に近い筋が、最終的に引き継ぐ形になったようだ。
 『移民70年史』には《受け入れ態勢の不備や松原の死亡などで一時頓挫を来すが、後には海協連(財団法人日本海外協会連合会)に引継がれ、またワクの南部への転用なども行われて導入が続けられ、一九六一年までに中西部三六家族一九五名、南部一六六家族一〇三六名が移住している》(113頁)とだけ書かれ、松原の功績を強調する記述はない。
 『移住研究』24号に掲載された松原移民枠の推移を見ると、実に4806人も入っており、戦後移民全体(約5万3千人)の9%、ほぼ一割を占める。1953年の第1回のマット・グロッソ州(417人)やバイーア州(235人)を先頭に、1960年以降はサンパウロ州やリオ州、南大河州が圧倒的に増えていることが分かる。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)