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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=3

 ミヨ子女史は青年と花嫁候補に対して、終始親身であり手を抜くことはなく、どんな労をも惜しまなかったと「ききよう会報」は紹介している。
 小南ミヨ子女史が亡くなってその四十九日が営まれたことは、新聞記事で後に知ったことであるが、今年二〇〇七年三月二十五日の一周忌は、その事前に知り、曹洞禅宗仏心寺へ行き参拝させてもらうことができた。日本からミヨ子女史の片腕だったという母娘も参加されていた。
 「ききょう会」の会員として花嫁移民の連帯感と結束は強く、それは小南ミヨ子女史氏を慕う気持ちと相まっていると感じられ、この一周忌には遠くはミナス州や、サンタカタリーナ州サンパウロ近郊から参加した人もいる。サンパウロ市内に住む人はほんの数人だった。
 そして、その夫たちも十人ほどが参加され、計五十三名が仏心寺を出たあとに昼食を共にし、そのあとさらに東京農大会館に席をかえてミヨ子女史の思い出を歓談しあった。私はその仲間にいれてもらって数時間すごしたが、司会者の、
 「ブラジルに来て良かったと思う人?」という質問に全員が手を上げるのを見た。彼女たちの話を聞くと、ミヨ子女史自身は身なりにもあまり頓着しなかったようだ。
 「チビタ下駄を履き、外務省内をカタカタと歩いていた」と会長の大島純子は懐かしそうに言う。この人柄が、移住して幸せな生活をした者ばかりでなく、幸せだったとはとてもいえない人達をも、ミヨ子女史氏を実母のように慕わせる要因となっているのだろう。

 花嫁達が移住した後もミヨ子女史が世話をしたというエピソードの一つとして、佐藤和江(千葉県出身十回生)は、
 「娘を日本の幼稚園に六ヵ月やったのですが、先生にすごく可愛がって貰った」と語っている。ミヨ子氏にとって実の孫のような可愛い思いがあったのだろう。
 花嫁を送り出す時代が終わったあとは、佐藤和江の例のように、その花嫁の十三歳から十五歳の娘たちを毎回十五人ずつ日本に招き、一ケ月ほど神奈川県茅ケ崎市の中学校に体験入学させ、そして花嫁達の当時と同じ「よき日本の躾」を続けたそうだが、一九九八年に自宅の階段から落ち、脊髄を損傷して、以後は寝たきりになっていたとのことである。           
 お亡くなりになられたのは二〇〇七年二月十八日、九十六歳。福島県若松市出身で、日本女子大学卒業。一九八十年に勲五等宝冠章、八十五年吉川英治文化賞、神奈川県文化賞を受賞された。
 
 小南ミヨ子女史に送り出された移住花嫁の他に、個人的な縁で移住した花嫁も多い。それは訪日できる生活の余裕ができた知人に
 「日本に行ったら嫁さんを探してきて欲しい」と頼み、それを実現した例、または青年自身が訪日して花嫁となる人を探した例、さらには私のように縁戚にある者が花嫁として移住した例などがある。
 私の移住の動機や移住後のことを書きながら、おなじ船できた花嫁たちのこと、「ききょう会」の花嫁のこと、コチア青年移民と呼ばれる農産業組合の青年たちへ嫁入りした花嫁のことなどの、その様々な移住後を書いていくことにする。