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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=5

 赤い靴を履いて日本を出でゆきし女の子とおなじ波止場を発ちぬ

 赤い靴は子供のころに履いたきりだった。大人になって現在にいたるまで、どういうわけか私は黒や紺色の寒色系が好みで暖色の中でも赤はことに趣味に合わず身につけたことはめったにない。この出航の日も、もちろんそんな靴を履いてはいなかった。
 しかし、日本で歌いつがれている童謡の女の子の発った同じ横浜の港から、眼に見えない赤い靴を履いた二十五歳の私は旅立ったのだった。
 赤の嫌いな私が、なぜこのドレスを選んだのか自分でもわからないが、出航の時に着ていた白の綿サテン地に、大きな赤いハイビスカスをプリントした大胆なサックドレスは、大胆すぎて同船者には異常な印象をあたえたらしいが、それは、それまでの自分への決別の旗であり、日本を出る私という船の帆であったと今更ながら思い出される。九月初旬の太平洋を渡りきるまで、前向きな気分でいられたのは、このドレスを着るたびに、私の中で息を潜めていた哀しみを押さえつけていたかも知れない。
 神戸港出航の時に見送りに来てくれたのは、友達の他に実父の兄弟と実母の姉妹であり、いずれも私の叔父と叔母であった。
 「どんなことがあっても落ち着いて欲しい」と土佐から見送りに来た実母の弟嫁に告げられたが、
 「行って目で確かめてから決める」と私は答えたように思う。そんな言われ方をされたために、私にはっきり言えない何かがあるように感じたからであった。
 私の渡航手続きが進んでいる頃、母方の叔母の家で叔父が言いかけた、
 「あの吉本の家には知恵のおく…」という言葉を叔母がさえぎったことがあった。その概要を、私は短い話のなかで掴んでいたように思えるが、もう少し突っ込んで聞こうとはしなかった。
 いくら私がおしゃべりだとしても、そんなことを友人との会話にのせることもしなかったから、「きちんと聞くべきよ」というアドバイスを受けることもなかった。それが出航間際の「行ってみてから決める」という返事の中で思わず意思表示することになったのではと思う。
 まだ日本の海域内とは言え、横浜港から太平洋に出て、だんだん遠のく日本の灯りをデッキから感無量で眺めていた移民は多かっただろう。しかし親兄弟のいない私にはそれがなかった。自分でも気付いていない哀しみと不安があったとはいえ、嫁ぎ先が叔母の家であるためだったかも知れない。私はただ四十五日間の航海の長さばかりを思っていた。
 「赤道を越え南半球に入る頃、あなたを誘って上甲板で馬鹿みたいに騒いだでしょ。私、あの時、最高に悲しかったのよ」とブラジルに来て半年後に再会した上村祥子はそう言って、
 「あのとき付き合って遊んでくれて、ありがとう」と私に感謝した。
 この頃は会わないが、今でもあの時の話が出たら彼女は同じことを言うだろう。彼女には日本に母と兄がおり、大切に育んできた家族の絆を思い出したから、最高に悲しかったのだという。

 話が飛んでしまうが、数年後、ブラジルに来て結婚をし、子供も生まれ、豊かで無くても落ち着いた生活をしていた頃のことだ。