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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=6

 「チリ辺りへ移住し直したいわ、海産物が豊富でしょ、主人の仕事とは別にお鮨屋でもしたら流行るでしょ」と私は訪問先のお宅で言い、やはりこのお宅を訪問し、同席していた七十歳代の鋭い目の老人がムッとしたように、
 「なぜっ、日本を嫌がる」と言った。なんだか変な老人だと感じたが、
 「たぶん私は輸出向きなのよ、ブラジルが駄目なら、日本に帰るより他の国へ行ってみるわよ」とも続けて言った。 
 帰宅してから夫はそんな私に、
 「昔なら殺されるようなことを、しゃあしゃあといったな」と言ったが、その頃はまだブラジルに来て間がなく、終戦後の日本人社会の大事件である勝ち組、負け組のことは詳しく知っていなかったし、知っていたとしても、若くてしかも気の強い私だったから、勝ち組にも、負け組みにも私には遠慮しなくてはならない義理はなく、言い切ったであろう。
 子供が生まれていず、夫との諍いが昂じることがあったなら、私はチリへ行ったかもしれない。私はそんな性格を持っている。夫に先立たれた今、もう少し若ければ実現に向かって進んでいただろう。
 こんな会話をした一九六九年末から約四十年経った二〇〇二年三月、日本食はロシアにまで浸透し、目の色の違うお寿司屋さんの店が独特のチョコレート寿司なるものなど出しているという。私はかなり先見の明があったようだ。

 上甲板で遊んだ宗教家の上村祥子が、ある時「夢を見て日本を出てきたから、憧れで外国に来たから、ユリさんはたちまち失敗した」とウルグアイから出て来た私のことを、そんなふうに言ったと人づてに聞き、「いったい私はどんな夢を描いていただろうか」と自問してみた。しかし夢らしいものはなかった。ただ取り立ての「活花教授免状」を生かしなさいという師の言葉で、花器や剣山を少しは求めていたし、その気になっていたことをいま思い出す。身の回りのことを「エッセイ」に書いてみたいという思いもあった。それらを「夢」というなら、たしかにそう言えるかもしれない。
 結婚するために行くのだから普通の生活をするものだと思っていたし、それが頭にあるから横浜港を出て、はじめに着いたホノルルのワイキキの浜で、台所用の布巾を「日本になかった、これは良く水を吸い取る」と思って買ったりした。私に対する悪意でもないだろうが、同船者が「夢をみて来た」と口に出したのは「移民」全体を考えてもおかしな話である。「希望」、それを「夢」というなら、それを持たないで移住した人達がいるとは考えられない。

 このブラジル丸には三十六人の移民が乗っていた。独身青年十二人、妻帯者四組、単独渡航者八人、花嫁八人だったと思う。花嫁達は入籍を済ませ「呼び寄せ」という形式での渡航である。移住事業団が割り振りしたのか、船室は神戸からの乗船者と横浜からの組とが別々だった。そのためと言えるだろうか、移民達は二つのグループに分かれてしまい、下船するまでたいした交りにはならなかった。
 私たち神戸乗船の花嫁は三人だったため同室になり、四十五日間をいつも一緒に過ごし、横浜乗船の花嫁達の名前も知らずに過ごしてしまった。