ダッコちゃんにかぎらず、写真と書類による見合い結婚には、いくらかの不都合があった。花婿側は騙すつもりは毛頭なく、ただ写真の背景として良い場所をえらび写したに違いないが、成功者の先輩の家とかパトロンの家や庭を背景にした写真を送り、花嫁側はそれを花婿の家だと思いこんでしまったことも、笑うに笑えない話だが現実にあったようである。
「写真ではいい男だったのよ、会ったらね、あなた、ちんちくりんで驚いたけど、まあ仕方ないでしょ。私を大事にしてくれるからいいやって、子供を三人生んじゃった。ハハハ」と屈託なく笑う花嫁とも知り合った。これなどは成功のケースである。彼女の場合は訪日した花婿の知人の紹介で写真結婚したそうで、サンパウロにも進出していた東京の一流企業の本社の秘書課に勤務していたと言う。
裸一貫で独りブラジルに来て、「よし成功してやろう」とする花婿候補者のもとへ嫁ぐのであるから、花嫁候補者も良い事ばかりを求めていないのは当然である。しかし、姑、小姑などの多い家に同居する花嫁が、辛抱しきれずに逃げ出してしまったケースも多かったようで、「料亭青柳」や他の飲食店のホステスになって生きていく結果にもなったと思える。最近知り合ったおおらかな花嫁も、
「今やっと快適な生活を始めたところよ、息子も娘も一人前になって、主人も定年後は家事をよく手伝ってくれるしね」と福々しく言う。その横で定年になり家事を手伝いだしたという若き日の花婿は、
「花嫁移民なんて、売れ残りのカスばかりが行くのかと思っていたら、船に一緒に乗っていた花嫁さんたちが、余りにも美人で教養があるし、嫁さんを貰うならこの方法にしようとその時思ったね」と屈託なく話す。
小南ミヨ子女史の送り出した花嫁達の結成している「ききよう会」に参加させもらって、出会った七十歳以上になっている花嫁方を見ても、またこの会以外で出会う花嫁移民をした方々も、実にしっかりしている。知能、容姿ともに申し分なく、それに加えて、夫とともに耐えて今を築いたという自信から生まれる風格ともいうべきものも備わって、その日焼けした顔が見るほどに美しいのである。
ダッコちゃんと同じく私にも思いがけず迎えが来たと呼び出しがあった。本人が迎えに来るとは思いもしなかったし、子供の頃に会ったはずであるが、何の記憶も思い浮かばない従兄で、私の結婚相手である本人が迎えに来たのだった。
第四章 赤い靴 ①
私は一九四〇年八月一五日、高知県の現在は南国市と呼ばれる所で生れた。その当時は南国市にはなっておらず、覚えているのは下末松という名である。父なる人は戦争に行って居なかったためなのだろうか、それが風習なのか私は母方の家で生まれたということだった。私の実父母はその祖父母によって子供の時に、許婚に決められていたことや、母は父を嫌っていたということを成長してからちらっと聞いたことがある。父は出征する前に許婚である母との結婚を望み、母は自分の意思に反してその父と一緒にさせられたという。
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