【北米報知13年7月26日付=稲葉八重子記者】ワシントン州の日系史は130年を越す。2010年の国勢調査では、人種を「日系(Japanese)」と回答した人の数は1位のカリフォルニア州、2位のハワイ州に続く全米3位で、最大都市シアトルを中心に州内には大小さまざまの日系団体が存在する。4月の桜祭り、9月の秋祭りをはじめ1年を通して文化行事も盛んだが、四世、五世と世代を重ねていく日系人たちが明治の時代に海を渡った一世移民から引き継ぎ、今に伝えるものはあるのだろうか。いくつかの視点からその姿を追ってみる。
■開国前から始まった日本との結びつき
さかのぼること179年前の江戸後期、尾張(現・愛知県)の漁師3人がワシントン州のオリンピック半島に漂着した。その約40年後、年号が明治に変わり、1869年に旧会津藩の武士らがサンフランシスコに渡ったのを皮切りに日本人の米国本土への移住が始まる。
1880年の米国国勢調査では、ワシントン州に日本人1人がいたことが記録されているが、シアトル、タコマ両市への移民は1890年代から増え続け、95年にはタコマ領事館(註=人口の増えたシアトルに1901年に移転し、シアトル帝国領事館に)が誕生。広島、山口、熊本、鹿児島など各県から海を渡った移民たちは製材所や鉄道、農場などで過酷な労働に汗を流した。
やがて宗教施設や日本語学校が建てられ、ホテルやレストラン、商店、クリーニング店など日本人経営の店が軒を並べる日本町が形成される。なかには実業家として成功する者も現れ、日本語新聞の発行、文学や芸術、武道など、現代までも引き継がれる数々の「日系文化」が花開いた。
だが一方で、日本人移民への差別の風潮は当初から存在した。州中南部のワパトでは1907年、日本人立ち退き運動が起こる。第一次世界大戦中は労働者不足のため、日本人労働者が重宝がられて日本町も活気づいたが、戦後に経済が停滞すると、排日の気運は再び高まりを見せる。21年には日本人の土地所有を禁止し、リースにも制限を加えるワシントン州外国人土地法が制定され、3年後には帰化不能外国人の入国を禁じる排日移民法が成立した。
こうした動きに反応したのが、米国市民として生まれた二世たちだ。シアトル生まれの坂本ジェームズ好徳は、排日土地法制定に対し正当な権利を主張しようと組織されたシアトル革新市民連盟(21年発足)を発展させ、30年に日系市民協会(JACL)を結成。第1回の会合にはワシントン州をはじめオレゴン、カリフォルニアといった西海岸の州に加え、ハワイやニューヨークからも出席者が集まり、アメリカニズム(米国人化)を呼びかけた。
■開戦と立ち退き、それぞれの苦悩
だが時代はさらにうねる。日本はしだいに国際関係で孤立していき、JACL誕生の翌年31年には満州事変が勃発、37年には日中戦争に突入した。日米関係も悪化の一途をたどり、41年12月8日(ハワイ時間7日)、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃によってついに太平洋戦争が始まった。
日米開戦は日系人にとって長い苦悩の始まりを意味し、真珠湾攻撃が伝えられた同日夜には、日本人会会長や日本語学校校長、新聞社社長などコミュニティーの代表者が連邦捜査局(FBI)に次々に逮捕される。一方、JACLは米国に忠誠を示す声明書を出すものの、米国民である二世に対しても政府の対応は結果的に厳しいものとなった。(つづく)