ルーズベルト大統領は1942年2月19日、特定の軍事地区を指定して居住者を強制的に立ち退かせることを許可した9066特別行政指令に署名。軍事地区にはワシントン、オレゴン、カリフォルニアの3州の西半分のほか、南部アリゾナが含まれた。
この指令によってミネドカ(アイダホ州)、ツールレイク、マンザナー(カリフォルニア州)、ハートマウンテン(ワイオミング州)など全米各地に設けられた日系人収容所には、「敵性外国人」とされた約12万人が送られたといわれる。シアトル周辺に住む約7000人はミネドカに収容され、近郊のベルビュー、ケントの日系人はツールレイクに移動させられた。
移り住んだ土地に根付こうと努力してきた一世と米国生まれの二世にとって、強制退去は不条理そのものだった。さらに追い討ちをかけたのが、日米の国籍や年齢、性別を問わず突きつけられた質問状、いわゆる「ロイヤリティー・クエスチョン(忠誠登録)」だ。そのうち27項は兵役に対する意思、28項は合衆国に対する忠誠を問うもので、いずれも「ノー」と答えた人は「ノーノーボーイ」と呼ばれ、ツールレイク収容所に集められた。
一方、兵役を志願した二世たちは、日系兵士で構成される第442連隊や陸軍情報部(MIS)に配属される。ヨーロッパ戦線に赴いた第442連隊では延べ約1万4000人が戦い、MISに配属された兵士は太平洋戦線で通訳や捕虜への尋問など後方支援に携わった。
二世兵士の果敢な功績は現代まで語り継がれ、2011年11月に米連邦議会が最高位の勲章となる「議会名誉黄金勲章」を授与している。
■権利回復と新たな世代、海を渡る日本人
戦争の形勢が定まると、米国政府の日系人への対応も変化を見せる。陸軍は44年12月、翌年1月から西部沿岸立退令を解除する方針を発表。収容所もすべてが45年末で閉鎖されることになり、住み慣れた町に戻っていく人が出始めた。
終戦後、シアトルにいた日系人の多くは帰省したといわれるが、日本町のあったあった現代のインターナショナル・ディストリクト周辺は中国人などが住むようになっていた。しかし、新聞、ホテル、県人会などが次々と再始動、日本との関係も徐々に回復していく。1950年には日本政府の在外事務所が置かれ、2年後には横浜―シアトル間の日本郵船の定期航路が約10年ぶりに再開された。
またこの頃、日本に駐留していた米軍兵士と結婚した日本人女性が大挙して渡米。ワシントン州にも多くの女性が移住し、婦人会を結成して地域コミュニティーや日系人たちとの交流を図った。
60年代以降は日本企業関係者も多数シアトル周辺に駐在するようになり、春秋会(現シアトル日本商工会)は71年、駐在員子女たちが日本語で学習できる教育の場を目指してシアトル日本語補習学校を設立した。
日系人に対する補償の動きも始まり、48年には立ち退きに対する日系人補償法の実施、66年にはワシントン州外国人土地法が撤廃された。そして、第2次世界大戦の終結から40年以上が過ぎた88年8月、レーガン大統領は生存する収容体験者に1人あたり2万ドルの補償金を支払うことが明記された「市民自由の法」に署名。強制退去の不公正を正式に謝罪した。
折りしもシアトルでは、強制収容に対する賠償請求を長年働きかけ、法案成立を心待ちにしていたJACLの全米大会が催されており、代表団は式典出席のために急遽ワシントンDCに向かったという。
2010年の国勢調査によると、人種を「日系」と回答したワシントン州内の人数は全体の5・2%にあたる6万7597人。世代は四世、五世とつながり、また戦後日本から移住した「新一世」と呼ばれる人々の子や孫も米国人として生まれ、育っている。(終わり、稲葉八重子記者)