中田みちよさんと古川恵子さんが『コスモポリス 1929年のサンパウロ』(ギリェルメ・デ・アルメイダ著)を全訳した。サンパウロ市400年祭の総裁、日伯文化連盟の初代会長を務めたあの詩人アルメイダの作品だ。日本移民全盛期のコンデ・デ・サルゼーダス街のルポだけでなく、ユダヤ移民、アラブ移民、ポルトガル移民、ハンガリー移民など各コミュニティを詩人らしい視点から描いている。〃古き良きサンパウロ〃を描いた貴重な文学作品であり、ギリェルメ・デ・アルメイダ・デ・アルメイダ館の許可と写真提供のなどの協力の元、掲載することになった。それに先立ち、中田さんによるアルメイダ本人と同館に関する付記(3回)を、続いて『コスモポリス』を掲載する。(編集部)
近代芸術週間の立役者集まる
サンパウロ市パカエンブー区マカパ街187番。カルドーゾ・デ・アルメイダ街と交差する道を少しのぼると、「ギリェルメ・デ・アルメイダ・デ・アルメイダ館Casa de Guilherme de Almeida」はあった。
とりたてて変わったこともない二階家で、前庭にむいた窓のうえに「サンパウロ州政府」というプラケートとロゴマークがなければ、閑静な通りの瀟洒な中産階級の家に見える。
周囲は庭をもつ家が多く、みどりが豊かにあり、館そのものが晴れやかな印象を与えている。ギリェルメ館は現在「POIESIS」という州政府の外郭団体が管理している。詩人でジャーナリストだったギリェルメ・デ・アルメイダが住んでいた家を、死後10年経った1979年から博物館にしているということである。
わたしたちがその館を訪問するのは、ハイカイをブラジルに導入し、『コスモポリス』という本のなかで「人形の街(原題はO bazar das bonecas)」というエッセイで、当時日本人が密集していたコンデ・デ・サルゼーダス街を紹介した人物だからだ。
館が建築された1946年頃のパカエンブー地域というのは、友人たちが「さいはて」と呼んだほど辺鄙な場所だった。「丘の家」と愛情をこめてよばれているが、たぶん、当時、周囲は野原ばかりだったはずである。
「ここにわが家を建てたのは、すごい高台で、孤高で、空を見るのに視線を上げる必要もなく、自分の考えを纏めるために視線を下げる必要もなかったからだ・・」(ということは窓から目を上げるとケーブルカーにでも乗っているような感じだったわけか・・・とわたしは考える)。
その二階家の建築が終盤にさしかかったころ、ギリェルメは自分の城として屋根裏部屋を作った。屋根裏の書斎は天井に頭がつっかえそうなほど、こじんまりしている(もしかしたら、ギリェルメは小柄だった・・・)。
板張りの室内には、本棚はもちろんだが(フランス文学の翻訳家としても著名)、望遠鏡や地球儀もある。それから1932年の革命時に参加したおりの銃やヘルメットもある。バーロ・ブランコにある州警大学の正面入り口にギリェルメの詩がかけられていて、文人は軍人だったのかと腑におちなかったのだが、革命軍に加わったことが判明し、はじめて納得。それが亡命にもつながったわけだ。(けれども演出過剰だなあ・・・。わたしはイジワルババア的に考える・・・博物館とは本人の事績を見せるところだから、こんな風になってしまうのだろう・・・)
その後、ここでは数え切れないほどのサラウ(昔はダンスパーテイーをそう呼んだ)が催され、タルシラ・ド・アマラル(Tarshila do Amaral)やアニタ・マウファッチ(Anita Malfatti)・・・そう、あの1922年に開催された『近代芸術週間』の立役者たちの集会場になった。モダニズムの幕開けである。
博識のギリェルメ(仲間たちにはマリオMárioとオズワルドOswaldoの両アンドラーデAndradeがいたし・・・超一流だったはずだ)が中心となって談論風発が明け方までつづいた、と記しているのは孫娘のマリア・イザベルである。(つづく)