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「ギリェルメ・デ・アルメイダ館」に寄せて=中田みちよ=(3)=蘇る「古き良きサンパウロ」

 理想の女性にめぐり合ったギリェルメは足げくリオに通い翌年、婚約した。結婚したのは1923年9月でリオに住むことになった。

 「結婚と同時にリオに移ったが、26年にサンパウロに戻り、パドレ・アンシェタ師範学校の事務所に職を得た。給料袋のあまりの薄さに、二カ所も三カ所もかけ持ちで新聞に書いた・・・」

 彼らが属したのはいわゆる上流社会といわれる階層ではあるが・・・(ブンヤさんはいつでも、どこでもビンボウだったんだ・・・ね)。
 マリア・イザベルはまた、こんな小話も紹介している。
 1890年の出生にちなんで、「自分は帝政時代に宿り、共和制になって生まれたんだ」と茶化すのが好きだった・・・。

 『コスモポリス』は1929年に『エスタード紙』に掲載されたエッセイ風のルポ記事をまとめて上梓したものである。サンパウロの工業化がはじまり、各国の移民がさかんに導入され、それぞれの村をなして各区域に住んでいたころである。生国も慣習も異なる90万の人々が、明日に希望をもって生き生きと暮らしていたその様子が描写されている。すでに遠い過去になってしまった「古き良きサンパウロ」がよみがえる。霧のように人々の記憶から消え去る前に本にしようと、なったのが1962年で、以後、三版を重ねている。

 このコスモポリスの中に、日本人が肩を寄せ合っていたコンデ・デ・サルゼーダスが登場する。当時、言葉の分からない日本人が、ブラジル側にはどんな風に映っているのだろうか。そんな好奇心から訳し始めた。ギリェルメは詩人であるからフレーズが短い。その短い行間から、隠された彼の言葉を探って文にしなければならない。
 だから、翻訳は難しいかときかれれば、「難しい」といわざるを得ない。さらにギリェルメはマルチ・リンガルなので、英語はもとより、フランス語やラテン語が飛び交う。たとえば、『人形の街』にも何の前触れもなく尾形光琳や藤田嗣治の名前が飛び出してくる。日本人なら訳もないこれらの名前も、異国の翻訳者にとっては頭痛の種になるだろう。
 語学教室の合間に翻訳して一年後に終了したのだが、エッセイの間にちりばめられている原語の詩や歌の解釈に自信がなく、友人の古川恵子氏に託した。ブラジル生まれの二人の娘さんが近所にいるから俗語や常套語のセンセイになってくれるだろう。大体辞書にもないような言葉は当地に生活するものしか分からないのだ。だからその国での生活体験がないものには、翻訳は困難になる。
 さらに著作権の問題がある。昨年だったか、著作権の有効期間が死後60~70年になるといううわさが出た。
 さて、日伯文化連盟の創立会長だったギリェルメなのだから、連盟を通したほうがハナシが早いと理事会にお願いしたのだが、1年ほどはなしのつぶて。最終的には個人でやってくれと返却された。この間、わたしは日語教師を辞め、ブラジル日系文学の編集だけに仕事を絞った。
 とすれば、後は個人的に扉を叩くだけである。先ほどの古川氏の娘さんたちが扉を叩いてくれて、ようやく「承諾」が出たのが今月である。
 ギリェルメの館に二度足をはこんで、ようやく理事長のマルセロ氏と面談できたのだ。向こうもハイカイの日本語訳や日本文学に多大の関心を抱いている。今後、何らかの形で交流が期待できそうである。
 日本語化できることを、誰よりもより悦んでいるのが、作品『コスモポリス』そのものではないかと思う。そして諦めずにきたわたしも本当にうれしい。
 叩けよ、さらば開かれん!! この言葉をかみ締めている。(付記、終わり)