当時この京野さんは六十歳を出た位だっただろうか。高田家で一ケ月余りお世話になった間に、京野さんが私に話しかけたことで覚えているのは
「ここいらのピオン(日雇人夫)が鍬をもって歩いている時は離れていなさいよ、用便に行く時だよ」という言葉だけだった。孤独でいるのが好きなのか、食事が済むと高田さんの家族から離れた。
「独りで英語の本を読んどるのよ」とは高田老夫人の言葉である。
ウルグアイを出て十五年後に、病床にいる老夫人を見舞いに訪ねたとき、窓の鎧戸の壊れたものまで当時のままに見えたが、高田老も京野さんも他界してすでにいなかった。
「酒とカジノを楽しんで、楽しんで逝った…よ」と老夫人は言い、
「写真を写すときはいつの間にかいなくなるから、これしかなくてね」と笑いながらお墓を指差した。そこには日本を出た二十代の京野さんの写真が、大理石の墓に焼き付けられてあった。
「誰も身内がいなかったからパスポートも一緒に棺に入れたよ」ということだった。この当時、私はまだ短歌をはじめていなかったが、数年後に思い出して「指先ほどの国」と題した連作三十首に
逃れきし思想犯この地に老いて逝き 大日本帝国の旅券の遺る
投げ方を間違えられしブーメランか男は祖国へ帰らず逝けり
と二首詠んだ。第一首目の第五句が事実と違うのは、高田家に繁栄をもたらし、大きなものを遺してはいるが、彼自身の遺品が何もないのは、寂しすぎるという私の感傷が事実を曲げてしまったものである。
太平洋戦争の始まる一年前の一九四〇年生まれの私が、戦時中の思想犯について知るのは本の中、映画の中でしかなく、南米ウルグアイは中立国であるために、ここへまで逃れて来て、投げ方を間違えられたブーメランのように祖国へ帰ることなく、この地で果てた人がいたことは、消すことのできない哀しみを今も私に残している。
この高田家に世話をされたことのない日本人花卉業者はモンテヴィデオにはいないということは後に知った。隣国パラグアイで失敗してウルグアイへ再移住してくる同胞の多くが、この高田家を頼って来たそうで、吉本家もその一人であった。高田家は熊本県八代の出身で、老夫人がまだ十三才の頃、袴をはいて一家でペルーに移住し、失敗してブラジルへ再移住、ブラジルからウルグアイへ更に移住し直して、ようやく成功し現在に至ったという話を、私はこの老夫人から聞いた。この老夫人は大柄、老主人は小柄で蚤の夫婦そのものといえるが、夫婦そろって肝っ玉は大きかった。
高田家に寝室は幾つもあったが、私は二階にある老夫婦の寝室で、守られるようにして眠った。白髪を薄紫に染めて美しくセットした老夫人は、
「心配なか、この国は離婚が認められているけんね。その保証人はうちがなるとよ、それにほれ、もう一人は池田さんが良か、これも吉本さんの友達だし、
ユリちゃんは痩せているが健康そうで明るいのが気にいった。めそめそ泣かれたらやりきれんとね、前にも花嫁が婿さんを嫌うて、こじれたことがあったと。かなり暴れまくり、今は嫁に来てやったと威張り散らして暮らしおるとね。あんたは普通の娘よ」