「従兄同士の結婚は、私ら最初から反対じゃった。籍を抜いてブラジルへ行きんさい。困らんようにサンパウロで落ち着く所ば紹介もするとよ」とぼつぼつと言って、私を勇気つけてくれた。
いま熊本弁でそれを書こうとしても、熊本県人でない私には無理である。しかし高田家の人々を思う時、熊本弁を外してはあの温かさが遠退くような気がする。
南半球の春、草原の草のにおいのする道を、高田家の老夫人に連れられ、度々モンテヴィデオの街へ出た。
横浜、ホノルル、ロサンジェルス、パナマ運河を渡り、キュラソ、カラカスを見、クリストバル、サンタマリア、リオ、サントス、サンパウロを見、ブエノス・アイレスで見たような活気は無かったが、その代わりにモンテヴィデオの街には静けさが満ちていた。
こじんまりという表現がぴったりの静かな街へ出て、まずは順序として永住権収得から始め、離婚手続きへと進むために、毎日のように市内に出たのだった。
この時、おばあちゃんは七十歳をでた位だっただろうか。市内で喉が渇くと瓶入りの水を買うことが、日本の水の美味しさを当たり前に生きてきた私には不思議であった。永住権の手続きについて、老夫人の言うとおり、指紋を採り、サインをしなさいという指示にしたがい、私はするのみ、一言もスペイン語を解せずに済ませた。その後、一枚のカードに私の名前が書き込まれた永住権証を受け取り、ウルグアイを出国しても二年以内に戻れば永住権は切れないことを聞かされた。
聞けばモンテヴィデオは「海抜はゼロ」との返事がかえるが、たぶん五十センチ位はあるのだろう。どの農園でも水道は引かれていないそうで、雨水をタンクに溜めて農業用にも炊事にも使っていた。掘った井戸の水でお湯を沸かすと、そのうちに薬缶が石灰で白くなるという事だった。日本人の家はシャワーの他に五右衛門風呂を作ってあるとのことだったが、お風呂の水もやはり石灰分の多い水で、髪を洗う時は最後のすすぎは、雨水を利用していた。
叔母の家は臨時の仮住まいとのことで、トイレも無く、ウルグアイに着いた日から高田家に連れられて来るまで、シャワーにも五右衛門風呂にも私はいっておらず、上陸して高田家ではじめて五右衛門風呂にいり髪を洗ったことを思い出す。
この高田家の農園には、叔父叔母の他に、池田さん夫婦が私を訪ねて来た。また高田家の親戚が気の強いハポネース(日本人)娘を見るためか、日本の話を聞くためか訪ねてくるし、日曜日は親戚が集まってマージャンをするのが楽しみらしかった。その男達について来た奥さん方は、おしゃべりは勿論だが手芸を教えあって楽しんでいるようであった。
池田さんのお宅に招かれることもあった。洋子夫人はまだ一歳にならない女児を抱き、
「夜はまだまだ寒いのよ」と言って、防寒のために一九六六年代のこの頃、日本で見ないような格好をしていた。
それは子供のころ、養母が痩せっぽちの私の細過ぎる脚を恥じて、冬には強制的にさせた冬ワンピースの下に、スラックスを履く姿だった。アンデス颪が寒すぎるからだということだが、この当時、大阪では誰もしない見られない格好だった。