・・子どものときに想像したこと。
「こここに深い穴を掘って、掘って、深く、ものすごい深い穴を掘って、地球をつきぬけて、その中にあたまから落ちてズーズーズ、ポーン。一丁上がり。とうまい具合に向こう側の日本につく。落ちたときは頭が下なのに、着いたときは頭が上で、そのままうまい具合に着地するんだ」
・・そして大人になってからもそんなことが起こる。大体同じようにだ。
ちがうのは私は車を運転し、雨が降っていたことだ。一日の終わり。それは終わりにふさわしく、決定的な灰色。どうにもならない薄ねずみ色なのだが、大したいいこともなかったのに懐かしさを覚える、恒常的な「もうたくさん」という見えないカラスのくちばしから零れ落ちるしずくに似ている。・・雨だけがもたらすことができる人生のこの厭世感、この空虚感・・・。
しかし、興味深いのは、明るい井戸口。子どもの頃と同じように落下しながらまちがいなく日本を夢想することだ。夢は雰囲気をかもすように扇の形をしていた。
あの、半透明な車のフラント・ガラスをきれいにする扇形の、振り子のように正確に、こちらからあちらへ、あちらからこちらに。ガラスをつたう光るしずくを、皺のように孤をえがきながらはらうワイパー。このガラスの扇が扇の中の日本の景色を彩る。
グロリア街の古い塀に沿っていくと、角に出る。角は左に曲がる。反対側は右にすべりおちる下り坂になっている。
そこには日本がある。もう? そう、そこはすでに日本なのだ。そこにはありふれた、サンパウロのどこにでも見られるような俗っぽい店が並ぶ。はじめて日本が姿を現したところだ。黒板に白いチョークで品物の値段が書かれてある。それは日本語。
コンセリェイロ街を進むと、コンデ・デ・サルゼーダス街に出る。急勾配の道がまっすぐに伸びているその先には、ボア・モルテ街の古い黒い哀しい屋根がある・・・聖週間の死人のような静けさを保ち、そして喪に服すその家族のように、(ボアモルテ街の男どもはみんなファグンデスで、揃って故人だったような気がする)生気を失くした人々が、ボア・モルテ街の古い黒い哀しい屋根の下で暮らしている。
しかし、雨と見まちがうたそがれのこの中に立っていると、ここからサンパウロの日本が始まり、ここで日本が終わることがわかる。始まり、とつぜん終わる。なぜなら、この日本は小さく、小型で、ちっちゃい。すべての日本がより集まっている。密集。コンデ・デ・サルゼーダス街の軒をならべる家々は表情をもたない群集の顔だ。金持ちの庭にある、盆栽のねじ曲がって強靱な松の木のように矮小で、小型で、ちっちゃい。
オガタ・コウリン《註=尾形光琳(1658―1716)江戸中期の画家。工芸意匠家。独自の造形美琳派確立》が絹地に書いた鳥類、あるいは黒塗りの箱のふたに書かれた、正座して琴や三味線を弾く金色の芸者。象牙の根付、あるいは吝嗇なコレクターたちが自慢たらしく仕舞いこむ紫水晶のペルジャー。
三行詩のように小さく、凝縮した思考が17文字にこめられるハイカイ。短く華奢で小さい。
そこは小人の世界。黄色いリリパット島(ガリバー旅行記の)。人形の街。
歩道を通る子どもがみえる。褐色の体。丈夫でまっすぐな髪は、人種の特徴をもろに見せている。額にはきっちり切りそろえられた前髪。まつげのない優しく潤んだアーモンドのような瞳が、面から零れ落ちそうだ。その子どもとそれほど違わない小柄な女。茶色の毛糸の服を着てこっそりと音も立てずに小股に歩く。けれどもアスファルトを踏む足取りは確か。
小雨の下を小さい人影が通り過ぎる・・まるで人形だ。彼女よりそれほど大きくない小男が長い長い雨合羽を着て通る。雨合羽の帽子が垂れさがり、男の小さな手も垂れ下がり、毎日通る道を小走りに行く。(つづく)
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