高田老夫婦、若夫婦、池田夫婦、山本夫婦とその親戚一同が、私の従兄妹同士の結婚に不安の意を示し、また紅熱病のためにこうなったと説明している知的障害の従妹のこともあって、私はモンテヴィデオに来て一月半月で正式に離婚した。高田家の縁戚である民子さんが、サンパウロ市から六十キロ離れた郊外ジュンジアイ市の、苺栽培農家へ嫁入りするため、三重苦の私を彼女に託せば安心と考えた高田家の皆さんの計らいで、彼女と共にサンパウロへ発つバスに乗った。
日本から持って来た持ち物は、神戸の移住センターで買い求めて、荷造りに使ったドラム缶二本に入れて高田家の納屋に預けた。ミシン等は馬鹿馬鹿しい値段で売るしかなく、日本を出る時の所持金三五〇ドルは、それぞれの寄港地で使ったため二〇〇ドル足らず、モンテヴィデオに着いて、様々な経費やサンパウロへのバス代などに使い、残金は三十五ドルしかなかったが、なんでこう強かったのか、私は何の不安も感じていなかった。
まるく見ゆる外洋より来し痩せた娘はバスにて去りぬ草原(パンパ)の国を
民子さんは、ウルグアイ生まれの二世であるが日本語ができた。二十五歳の私より一つ年上で、ブラジルへ前年旅行したとき知り合った同年の男性と結婚するために、成功者である親元を離れてサンパウロから百キロほど離れたジュンジャイ市へ向かうのだった。しゃきしゃきした性格のようで、自分の選んだ道へ進むという意思を感じさせた。中背で少し痩せた体から芯の強さが、ピンピン伝わり、ブラジルに着き、高田家から紹介されている松岡春子氏に私を引き渡されるまで、この旅行をメモしょうとする私に注意をはらい
「ユリちゃん、時間がない、早くしなさい」と彼女は世話をしてくれた。わが人生六十七年間のうち、この忘れがたい二日間だけの道連れであった民子さんは、消し去ることの出来ない今でも大切な女性である。私と同じ花嫁移民といえる彼女のことも記しておこう。
日本人人口の少なさもあり狭い国とはいえ、その人数が散らばって暮らしているため、街で出会うことはまずないらしい。バスに乗り合わせた東洋系の人に、
「ハポネス?」と聞けば、
「ノー、シネース」(いいえ、中国人です)と返事をする。
五百人というこの日系人口は一九六六年も、それから三十三年後に訪問した頃も、変わることなく五百人であり、大使館に行って確かめなければ、いつも増えもせず減りもしない返事が返ってくるのかも知れない。日本人会もあり日本語学校もあるということを一九九九年の訪問のときに知った。
この日系人口にもよるだろうが、二〇〇三年にモンテヴィデオに行ったとき、聞かされたことを書けば、親達が息子や娘の結婚の対象として、日本人をどう望んでも、出会いがないのが現状だったそうで、ほとんどがウルグアイ人と縁組するしかなく、さもなければ隣国のアルゼンチンや、ブラジルへ嫁いでいくとのことであった。
当時の私の叔父と叔母が、日本から嫁取りを考え、私を呼び寄せた理由もこのあたりにあったのだとわかるし、ましてや知的障害児のいる家庭に嫁入りしてくる娘のいないのは当然であろう。