女傑と言われる松岡春子の自宅はアルト・ディ・ピニェイロス区にあった。夜になって連れて行かれたために、どの様な区内かは判断出来なかったが、一夜明けて門から出て眺めると静かな住宅街であり、一軒一軒瀟洒に作られた邸宅ばかり並んでいた。このころ名前を知らない復活祭の頃に花が咲くので、アレルヤと呼ばれる街路樹が道に覆いかぶさり両の歩道に並んでいた。どういうわけか、日本にいた頃から、寺院をはじめ住宅街などを眺めながら歩くのが好きだった私は、碁盤目に作られたこの住宅街を、迷子にならない程度に歩くのが、三か月の居候中の楽しみになっていた。
日本の台風を思わす大風が吹き、ハイビスカスの垣根を圧し折り、吹き飛ばし、さっきまでの太陽は落ちてしまったように空が掻き曇り、と言うより夜中のようになるスコールが毎日午後二時あるいは三時になると決ってやってきた。もう四十年この国に住んでいるが、どうしたわけか、近年はこのように実に規則正しくやってくるスコールはあまりない。たまに規則正しいスコールが来る夏には、ブラジルで初めて体験した松岡家でのスコールを思い出し、哀れなハイビスカスの垣根が眼に浮かぶ。
十二月一日に松岡家に来たので年末行事が多かった。日系人社会の生活の片鱗、ブラジル人たちの生活習慣など驚くことばかりで、このごろいう「カルチャーショック」なるものを次々に体験して、二十五歳の痩せたジャポンノーボ(新来日本人)の女の子は、その行事にいくばくか振り回されて生活していた。
この一九六六年同時、樅の木に綿の雪をのせ日本と同じ飾り付けのクリスマスツリーのある十二月は、ブラジルでは真夏である。ノースリーブのワンピースを着て、花舗で販売する小篭入りのクリスマス飾りを作る仕事を夕食後手伝った。飾り付けは活花を習っていたことが幸いして悪くなかったらしいが、安くはない色ガラスの玉を、指に力を入れ過ぎて情けないほど割った。私の作った分からの儲けはマイナスだったかもしれないが、顔をしかめるのは春子の次女の時代であり、その母の女傑はさすがに何も言わなかった。
ウルグアイの高田家で、はじめて銀器をガラス越しに見たが、それを磨くのは、カルメンと呼ぶお手伝いの仕事であった。小説で読んでいた銀食器磨きを、まさか私がすることになるとは考えもしないことだったが、私に手伝えることは銀食器を磨くことぐらいで、手を真っ黒にしてみがいたこの家の銀器は、ずいぶん長い期間磨かれなかったらしく黒ずんでいた。
ブラジルは日本で聞いた通り、人種の坩堝であり国際色の多さ、ウルグアイで出会うことのなかった肌の色の多彩さにも慣れはじめ、カラリとして湿度のすくない夏は、私を落ち込ませることにならなかった。そんな国ブラジルの日本人について言えば、日本全国から移住している県民のとりどりな方言を身近に聞くことになった。熊本弁のとなりで紀州というか和歌山弁、そのとなりには沖縄弁という具合である。また他県民と親しくなれば、熊本弁に和歌山弁が混じり合い
「どうも気がついたら、変な言葉になっていた」と、苦笑いすることになる。私はブラジルに来るまで、十年間を大阪で暮らしたために大阪弁に慣れて使っていたが、十三歳でブラジルに来た松岡春子の常用語は土佐弁であった。
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