ホーム | 連載 | 2014年 | コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子 | コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(8)=ゲットーの街――ユダヤ移民

コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(8)=ゲットーの街――ユダヤ移民

ゲットーの街の章の挿絵(写真提供foto=Casa de Guilherme de Almeida)

ゲットーの街の章の挿絵(写真提供foto=Casa de Guilherme de Almeida)

 灰の聖水曜日――。ルス駅にかかる茶色の陸橋を横切ったとき、車は濃い雲のように汚れた煙をあびた。すると突然、今日は「灰の聖水曜日」だったことに気がついた。灰色のかたまり。強烈に石炭がにおう黄色い煙のかたまり。汽笛とともに吐き出されるかたまりは陸橋の両脇の空気を包みこんで路上の車を窒息させるようにおりてきた。
 この汚れた雲が横から吹いてきた温かい風にかき消されると、暗い夕暮れのなかで、ジョゼ・パウリーノ街がふるえる映像のように動き始めた。低く長くギュウギュウ詰めの道。そこいらじゅう既製服の店や家具の店や毛皮の店だらけだ。
 舗道を家路に急ぐ人たちは、街の中心街からやってきたわたしと同じ方向に進むので顔が見えない。見えるのは背中ばかりである。いろいろな背中がある。大きい背中、小さい背中、明るい背中、暗い背中、急ぐ背中、ゆっくりの背中。まっすぐの背中。曲がった背中。いずれの背中も一日の疲労が十字架のように重くのしかかっている。そして広い背中も(訳者注・ブラジルではネポチズムの意)・・・悪ふざけを許したまえ。
 背中はもとより背中でしかない。しかし、その何百という背中のなかで、わたしの興味をひく背中があり、眼を走らせた。黒っぽい。ひどく黒ずんで見える。黒い帽子と黒い靴のあいだでヒラヒラひるがえる黒い外套。
 「この男の後をつけてみろ!」(うちなる声がする)
 
 大きな黒い外套すれすれに車が通る。黒い外套は少し身を避けるが、すぐまた前向きになる。はじめて正面から見た。ユダヤ人とはじめて真正面から顔を付き合わせたのだ。顔?というより髭である。見えるのは髭と鼻。まさしくユダヤ人だった。外套に風格がある。この外套はある時期には、だれかの正装だったのかもしれない・・・しかし、しっくりと男の体にあっていた。外套など誰も見向きもしない。この街では見慣れた、この地区になじみきった、なくてはならないものなのだろう。
 男はひとり考え深げな笑みを浮かべている。男は誰も見ず、また誰も男を見ない。歩を進めるだけである。
 カタフィルス《註=ピラトの下僕、宮廷の門番。キリストが引かれて引かれて門を出るとき背を叩いて急がせた》、ブッタデウス《註=年老いたユダヤ人》、アハスヴェルス《註=靴屋、キリストが引かれていくとき背中を突いた》、あるいはイサク・ラクエデム《註=キリストが戸口で休むのを許さなかった。これらの人々は「行くというならいくでもないが、その代わりにわしが帰るまで待っていよ」と告げられた。それで「さまよえるユダヤ人」と言われる。「芥川龍之介・切支丹物語」》のような、さまよえるユダヤ人として、ただ、足を進めるだけである。
 「さまよえるユダヤ人」の前を行ったり、後ろを行ったり、横を行ったり、歩調をあわせて一緒に歩いたり、次から次へと黒装束が続く。
 ただ前に進む。ただ進む。同じ方向に、まっすぐに、まっすぐに、ゆっくりと。思考をたずさえてゆったり笑みを浮かべて。誰もみずに、誰にも見られずに・・・カタフィルス、ブッタデウス、アハスヴェルス、イサク・ラクエデム・・・彼らと共にイスラエルの民はその昔、その遠い昔、紅海の奇跡の水が城壁の間を流れていたように、ジョゼ・パウリーノ街の両脇の屋根の高い家々の間を縫って流れていく・・・。(つづく)