「シッー」
夜はどんな風にやってくるのだろうと、すべてが黙り、すべてが止まった。街のにぎわい。周りの空気。ユダヤ教会堂の前に止まる車のエンジンの音などすべてが。
「シッー」静かに! ユダヤ教会堂だ。
セメントの橋が架かった堀の、カピタン・マタラゾ街からへだてられた鉄のドアの向こうに二本の柱にはさまれたドアがあり、それが開いていた。
なかは照明がともされている。いかにも寺院らしい雰囲気だ。サスペンダーの男の子がまるで天使のように戸口に立っている。入り口の三段目、最後の段を上るとき、なんともいえない厳かさにおののいた。
本能的に帽子をとろうと前方を見ると、内部にも帽子が見える。そこで、わたしは、ここはユダヤ教会堂だったことを思い出したのだ。右側にむかいオーストラリア風の座席の後ろから二番目の席に着いた。まず、内部を観察する。
小さく、貧相である。高いところに張り出し席のようなものがある――女性たちの身廊(nave)だ――誰もいないように見える。奥の方には東にむけて、一番奥まったところにテーバ、つまり、モーセの律法、トーラを収めた「契約の箱」《註=モーセが荒野にテントのような幕屋を建て、なかに「契約の箱」を納めながらさまよった。箱の中には岩を叩いて水が出たときの杖、空から降ってきたマナ(パン)、それに十戒が書かれた石盤が収められていた。しかし、バビロン捕囚の時、もちさられ、何処にあるのかわからず、ユダヤ人はいまだに捜し求めている(旧約聖書 出エジプト記)》が置かれている。
赤いカーテンは「神殿の垂れ幕」だ。金色の文字で覆われている。上のほうには文字に挟まれたソロモンの星(ダビデの星)中央には、決して口にしてはならない四文字の方、H W H《註=本当はYHWH・・・ヤハウエ=神、ユダヤ人はある時期からこの名を口にしてはいけなくなった》――そう、あの何とかいうお方の名。
右側にはガラスの入った戸棚と点火したメノラー・・・七枝燭台・・・。「契約の箱」の前には、擦り切れたじゅうたんに覆われた手すりがあり、朗読の際、祈祷師は祈りを読み上げるために、ここに身をかがめる。読み手は驚くほど小さい。土色の顔、それが黒いマントにほとんど埋まっている。
シルクハットをかぶり、手には本を持っている。大きな声で読みあげる。別のひげ、別のマント、そして別のシルクハットが、秩序もなくばらばらにいて規律などない。立ったり、座ったり、幕屋に背を向けたり、いすに馬乗りになったり、歩いたり、身廊を行ったりきたりしている。何か答えている人もいる。
自問自答する。「ああ、今日は灰の聖水曜日か・・・」
過ぎ越しの祭りにむかう祈祷がはじまるのだろう。感情のこもらない切れ切れの連祷が私には嘆きや泣き声、あるいは無気力なため息のように聞こえる。あのヨブ《註=神に背き長い間、魚の腹の中に閉じ込められた男(旧約聖書ユブ記)》もこのような言葉で、このような声で嘆いたのであろうか。
祈祷師の語調はさらに強く、さらに長くなり、さらに憂いをおび、まるでメシアがくるというかすかな希望の光を求めるように言葉をつなぐ。エレミア《註=旧約聖書ヨシャ時代の預言者》もこのように、このような言葉で、このような声で嘆いたのであろうか。突然、白い髭を黒ベールで覆った身廊の奥に腰掛けていた品格のある老人が、深い心を揺るがす答えを返す。
ラザロは暗い墓穴で、このような声でこのように話したのだろうか《註=イエスは死んで墓に埋められたラザロを生き返らせた》、ふちなしの聖帽の背の高い若者が、答えながら、応えながら、歩く。その一人が私の脇に立ち止まると、いっしょに指を鳴らす音が聞こえた。あの、犬を呼ぶような音だ。すると、にわかに怖くなった。贖聖行為ではないか。
―私の体に荒れ狂う、シナイ山の頂上の稲妻の中、怒りにもえた恐怖をそそるエホバが入りこむ、それに震えるのだ。突然、警笛のホルンと破壊される城壁のとどろきのなかを進む万軍の主《註=エレミア書111章20節》が、私の体に入りこみ、それにまたもや震える。突然、祐や者そよぐエデンの園を行く真っ白な神、エロヒムが私の体に入り込む。私はまた震えた。
会堂を後にしてカルバリオ(ゴルゴダ、註=キリストが十字架にかけられた丘)の空の下に出た。欠けた月の下に立ちのぼる煤煙。街の上に漂って雲のように見える煤煙。走り去る車の上に弓形にかかる煤煙。中心街をいろどる広告の照明の赤や青、それらが「灰の水曜日」の灰色とちがった黄昏をつくり出している。
1929年3月31日
ホーム | 連載 | 2014年 | コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子 | コスモポリス=1929年のサンパウロ=ギリェルメ・デ・アルメイダ=訳・中田みちよ=古川恵子=(10)=ゲットーの街――ユダヤ移民
タグ:サンパウロ