その程度の語学力でありながら、池之坊のバザーでバッタリ出会った熊五郎に会うために、私は街へ出ようと考えた。そうしなくては私になんの展開も訪れない、自分の前にある藪は自分で切り開かなくては進めない、と諺のとおり考えたのである。
行く先はタグア通り五十一番地。簡単なおぼえやすい通りの名でメモしなくても覚えている。何とかしてそこを訪ねて、同船者の熊五郎こと相馬啓次に会いたいと思った。
熊五郎というのは、日本を出る前に放映していた野良猫や野良犬を描いたアメリカ(?)漫画の中で見た一匹の動物の名前であった。それに彼の体形が似ていたので私がつけた渾名である。この漫画には他にベニ公という犬だか猫だか、もっところころ丸くて面白いのがいたのだが、それにピッタリなイメージの人物で、面白い人がいなかったために渾名をつけたのは熊五郎だけである。私は薬の副作用で声がつぶれていたためにオバQとつけられていた。
私が下車する通りの名ブリガデイロ・ルイス・アントニオと、目印の「ホテル・ダ・ヌービオ」を紙に書き、ホテルの前にあるというボールを持った二人の少年の像を見落とさぬように、私はバスの前座席に乗って外を見張続けた。松岡家の次女、時代に教えられたブラジル語を、日本語のアクセントで、バス運転手に、
「ケ デッセ オテル ダ ヌビオ」(ホテル ダ ヌビオで降りたい)と言ったのが通じた。ひと目でジャポノーボ(新来日本人)とわかるブラジル人にはまるで魅力がないであろう痩せた女の子の私を、運転手はそのホテルの前で下車させてくれた。
日本語に似て子音の少ないブラジル語は、発音に気を使わなくても、どうにか通じたのだ。初期の移民が干鱈を買うのに通じず、いらいらして「馬鹿野郎」と怒鳴ってしまったら、「ああ、バカリャウか」と店の人に通じて買えたという有名な笑い話がある。
「次はアヴェニーダ・リベルダーデをさがしなさい、そこでルア・タグアを聞けば簡単よ」と時代に教えられていた。そこからタグア通りまでは一キロぐらいはあったが見当もつかないまま、
「オンデ アベニーダ リベルダーディ?」(リベルダーデ大通りはどこですか)と聞く私に、
「この道をまっすぐ行きなさい」と手で示してくれ、言われるままに歩くと、その大通りにつきあたった。いま考えればペトロードの橋がある通りだったか。そこからゆるやかな坂道を七十メートルほど下がり、右へ曲がる最初の裏道それがタグア通りで五一番地はその通りの始まりだった。
ばったりと熊五郎と出会った曹洞禅宗佛心寺の二階から見たのは、一面赤レンガ屋根ばかりの下町風景で、日本では六軒長屋というが、その通りには、その三倍以上の棟割長屋がずらり並んでいた。ブラジルに来たばかりの私にはわからなかったが、この長屋はこの時すでに建築されてから四十~五十年くらいは経っていたものにちがいない。
レンガ作りの家は古い家ほど、確り作られており外壁を塗り直せば、いつまでも綺麗だそうである。その長屋を正面から見ると、庇はゆるいカーブを描き、さらにその下にちいちゃな庇があった。その庇の下に、玄関と言えないような、ただ扉があるだけの出入口があり、その横にガラス窓があり、壁はピンク、白、黄色、うすみどり、ベージュ、うすむらさき色など、、その家の主か主婦の好みの色に塗られていた。
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