その日の大使夫人の横柄な態度に、裕次郎が立腹し、
「おい、お前さんこの家の女主人らしいが、ここじゃ大層な家に住んじゃいても、日本に帰りゃ長屋にでも住んでるんじゃねえのか。ここでいい思いができるのも、ここにいる国民の払っている税金のお陰だろうが。勘違いしちゃいけないよ、いったい手前が何様だと思ってやがるんだ。こんなところで水一杯もらっても何いわれるかわかりゃしねえや。そうじゃないの、皆さん。今夜は僕が奢るから、みんなここを出て僕のいるホテルで気分よく一杯やろうよ。さっ、帰ろうぜ」言い捨てて踵を返し出ていってしまった。と書かれ、その後、ヒルトンホテルで裕次郎を中心に、日頃この夫人に対する鬱憤を晴らしに邦人たちが夜明けまで大騒ぎしたと一ページ書かれている。
このブラジルに来た駐在員ばかりではなく、どの国に行っても地位と身分と出来お金がつくと、人は大切なことを忘れてしまうものらしい。その国の人やコロニア人への軽蔑の態度ばかりでなく、駐在員同士でも大学卒でない上役に自分の大学出の夫が、なぜ頭をさげなくてはならないかと、ことあるごとに非難され続けたたという話も直接聞いたことがある。
[人間性とはとても広い意味を含有して一言では言えず、他者への愛のある思いやりも、他者を傷つけ殺す意思も人間性と言えるのではないか]と書いたものを読んだことがある。どのみち両方を備えたのが人間であろうが、しかし少女の私に田んぼを耕すことしか知らない両親が「実るほど頭を下げる稲穂かな」と聞かせた言葉が、私の弱い頭のスミッコにあり、こちらを採りたい。
いま思い出すままに、関わりのあった身分と財のある夫人たちのことを右に書いたが、その気ままな夫人達を、私とおなじく知っており、当時嫌な思いをさせられてはいても、おおらかなコロニア人たちは何かのおりに「ありゃ、酷かったね」と笑い話にするぐらいであろう。
その後、八〇年代に入ってから知り合った駐在員の中には、コロニアを理解しコロニア人と深く交際し、日本にはない人間的な温かさに触れ、人生観が変わったという人もあり、自分の心にそれまでなかった丸さができたようだと、ブラジルに駐在して実によかったと聞かしてくれる人もいる。
山崎豊子著『大地の子』の製鉄所の場面と同様の仕事を中国でしたあと、ベトナムでも同様に働いたという同級生は、両国の現地の人と今も兄弟のような繋がりを持ち、会いに行ったり来たりしているとのことである。
私のブラジルでの一人歩きは、タグア街を訪れたことから始まった。近くにいつも同船者の青年たちがおり、さびしくなると何かしら寄り添ったが、私も青年達も、どんなに近くても恋愛、まして結婚の対象としてみる相手ではなかった。中にはペンソンで一緒に食事をするうちに女子寮のOLと親しくなり、結婚を迫られているという青年もいたが、まだどの青年も結婚を考えられる身の上でないことを各自、自覚して交際をつづけることを止めた。
技術移民として移住をし、呼び寄せられた会社で働いて安定している彼らだが、言うまでもなく誰の胸にも成功への道を、これから探り歩こうという熱い思いを秘めている時期だったのだ。四十年経った今も、
「同船者で市内に住んでいたのは男ばかりで、寂しいときはよく集まってたけれど、誰一人私を口説く者がいなかったね」と言えば
「オバQなんて恐ろしくて」とブラジル丸での渾名を言って笑う。