そんな同船者を、私は次々と松岡家に連れて行った。春子の人柄に安心していたからであり、春子も大きく受け入れて、昼食を度々振舞ってくれたりした。旅行者や駐在員ではなく新来移民と分かれば、移民という連帯感と、来たばかりの若い移民に対する哀れみからか、一応成功した先輩移民達の多くが、そんな若者を食事に呼び相談にのり、また仕事を世話したりして良く面倒をみて労わった。しかし、その家に年頃の娘がいて恋愛関係になることは、青年たちが海の物になるやら山の物になるやらわからないためであろう嫌ったようである。
第十章 美顔術
七つの宝石名をつけたアパート群の中でも、一番高級なダイアモンドでのお手伝い生活は、反発を裡にもって働き、嫌な思いを積み上げるばかりであった。そんな可愛げのない娘を使う方も嫌であろうし、使われる私もますます嫌であったから長続きするはずも無く、四ケ月ばかりで終わった。
ブラジルに来て四十年になるが、このダイヤモンドの駐在員宅で働いたことに勝る嫌なことはない。もう一つあるとすれば、見合いでした結婚生活だったと言える。しかし、こと結婚については、いろいろな年代の方々と話してみて、ほとんど満足しているという返事が返ってこないことをみれば、日本で二十歳のころ聞いたように、「結婚をする前は両目で見、結婚をしたら片目になれ」ということをせず、夫も私も結婚をしてから両目でお互いを、じっと見ていた為の辛さだったと言える。
この駐在員の邸宅を出た私が、熊五郎や他の同船者の入っているペンソン田所の女子寮に入ったことは言うまでもない。高知県からの移民について松岡春子は、
「多いのよ、うちの花屋の方にあるコチア農産業組合は高知県人が牛耳っているよ」と自慢げに言ったが、「ペンソン田所」も経営者は高知県の人であった。
二十二歳ごろ日本で化粧品会社に勤めた経験を生かし働くことにして、日本の知人からオゾンの出る美顔器を送ってもらったが、小型のものを注文したにもかかわらず、箱に入った大型のものが届き、痩せた女の子の私には少し重い化粧品入りのバッグと、この美顔器の二つのバッグを下げエステという言葉はこの当時使われておらず、リンペーザ・デ・ペーレとこの国でいう美顔術をして働きはじめた。
サンパウロ市内の紹介された家々へバスを乗りついで行き美顔術をする、その仕事がない時は住宅街を一軒一軒訪問してその日の稼ぎを求めた。そんなことをして出入をすることになったある美容院はペンソン(下宿)に近く、ありがたいことに二世の経営者で、私が働くことに気持ちよく協力してくれた。
トレーゼ・デ・マイオ(五月十三日奴隷解放記念日)通りの経営者の名前「ルッチ」を店名にした美容院である。「料亭赤坂」は、この通りを挟んで目の前にあった。有名な歌手ロベルト・カルロスが愛人と住んでいるパラーシオ(宮殿)と呼ぶアパートも美容院「ルッチ」の並びにあり、客筋はお金を使える人達ばかりとのことであり、若い経営者ルッチが、私を出入させてもマイナスにはならないことを見込んだようだった。
パライゾ(天国)区トレーゼ・デ・マイオ通りのあたりは屋敷町だったようだが、この一九六七年当時にその瀟洒な邸宅を取り壊し、パラシオ(宮殿)と呼ばれるアパートや中級クラスのアパート群に建て替えられつつあった。
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