1899年に開始され、今年115周年を迎えたペルー日本人移民。19世紀末当時、同国では海岸地方におけるさとうきびと棉花の大規模プランテーションが主要産業として国の発展を支えていた。
1854年の奴隷制度廃止、72年のマリア・ルス号事件(横浜港に停泊中のペルー船籍マリア・ルス号に乗船していた中国人労働者を日本政府が解放した)に端を発した中国移民の廃止に伴い、労働力不足に陥った政府は日本移民に目を向けた。
日秘両国は1873年に「日秘修好通商航海条約」を結び、ペルーは日本にとって南米で初の公式外交関係を持つ国に。
1899年、南米で最も古い移民となる790人が佐倉丸でカヤオ港に到着(広島・新潟・山口出身者が多い)した。1923年までは契約移民、その後、約20年間は呼び寄せ移民で述べ3万6千人が海を渡った。
ところが、農園での労働は過酷なもので、伝染病の蔓延は多くの死者を出した。錦衣帰郷の夢は叶わず、一部の移住者は4年間の契約終了後、首都リマやカヤオなどの都市へ移り、露天商や理髪店を営んだり、上流階級にコックや庭師として雇われたりした。彼らは持ち前の勤勉さで成功を収め、その後、事業拡大に伴い日本から移民を呼び寄せたため、同国では商業移民が盛んになった。
第2次世界大戦中は、反日暴動や在留邦人の資産凍結、日本人小学校閉鎖、邦人指導者の米国への強制収容など相次ぐ苦難を耐え忍び、多くは敗戦を機に永住を決意したという。
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続いて向かったのはペルー沖縄県人会。支部はなく、国内唯一の沖縄県人会だ。日秘会館のある市内中心部からしばらくバスを走らせると、シーサーの描かれた赤い門が見えてきた。
仲宗根フェルナンド副会長(49、四世)が笑顔で一行を迎えた。西原町人会長を10年間務め、県からウチナー民間大使にも任命された若手のホープ。2年間、琉球大学に私費留学し、東京で4年間IT関係の企業に勤めたが、「経済的にも良いし安全な国だったけど、家族は皆ペルーだし、日本ではミドルクラス以上の昇進は難しい」と考え帰秘を決めたという。今は祖母の代から続く美容院を多店舗化し、舵を取る。
「面積は6万平米。サッカー場とゲートボール場、人工フットサル場、プール、空手道場もあります。毎年1月は他の県人会も一緒にオリンピック大会を開きます。施設は全て県系人の寄付で作ったものです」。一県人会のものとは思えない堂々たる施設に、一行は圧倒された。仲宗根副会長は「沖縄県人会は国内に一つしかないので、力を合わせやすいのだと思います」と言うが、やはりペルーでも〃うちなーんちゅ魂〃が受け継がれているようだ。
沖縄県系の歴史は1906年、36人の県民の移住に始まる。40年までに1万5千人が渡秘したので、実に移民総数の3分の1が移住した計算になる。1910年に県人会が結成され、72年、県や市長村の補助金と会員の寄付金で畑だった土地を購入し、現会館が設立された。
敷地を囲む塀には、各市村会の青年部が描いた〃ふるさと〃の巨大な絵やタペストリー。祖国や祖父の地を慕う気持ちがあればこその力作の数々に、一堂は見入った。(つづく、児島阿佐美記者)