ペンソンでは、二段ベッドを二つ置いた四人部屋で、こういうのを「バーガ(場所)を借りる」と言うらしいが、この頃、私はその呼び名を知らなかった。
窓側に机が、ドア側に洋服タンスがあった。寝ると蚤に襲われた。蚤はペンソン備え付けの布団の綿を止めている糸目に潜り込んでいて、寝る前と朝起きたら捕るのだが、いくら捕っても尽きることがなかった。どうしたことか私にばかり集り、保母をしている娘や、美容院で働いているその姉も銀行員の娘も、私の蚤捕りを笑って見ていた。
ペンソン代(下宿代)を払うと、手持ちの金はほとんど残らなかった。日曜日には食事が出ないから、皆それぞれ外で食事をするのだが、月に四回の日曜日の食事代があれば、それは幸いなことだった。ペンソンからリベルダーデ広場は歩いて十分足らずだったが、そこまで出て行かなくてはバスに乗ることもできず、というより他を知らないわけで、日曜日の食事をする安いレストランもなかった。
松岡家へ行かない日は懐具合にあわせて、ちょっと入ってサンドイッチを食べられる軽食堂か、立ち飲みをするスタンド式のコーヒーショップ「バール」を使った。ここでもチーズとハムを挟んで焼いたミストケンチというサンドイッチが食べられた。懐具合の寒い女の子の行けるのはこんな店だし、こんなサンドイッチ一ケでも空腹を覚えなかったのは、これを書いている現在の食事の量と比べると不思議なことである。
中華食堂へも「カレーをたべさせる」ということで、たまに行ったが日本食堂へは終に行くことはなかった。気軽に入れないものを感じたし、高いイメージが強かったのである。
現在のように、バイキング式で日本料理、中華料理、ブラジル料理を、好きなだけ皿に入れ、カウンターに持って行って、グラム単位で買って食べるポルキロ・レストランがあらわれたのは一九八〇年代の終わりごろであり、この方式のレストランがあの時代にあれば栄養のある食事が摂れたと思うが。
また話がそれたが、それたついでにもう少し続けて書くことにしょう。ブラジル丸では独身青年は一船室に四人が入っていたが、私がいた船室の通路の反対側の船室にいた青年達の四人のうち、三人は大・中・小のお兄ちゃん達同室のもう一人の青年とは、まるきり親しくならなかった。その名前を知らず渾名もつけず親しくなることのなかった青年が、処刑された黒人を供養しているローソクで真っ黒い教会の並びリベルダーデ大通りに面した所で、テーブルや椅子のないスタンド式のコーヒーショップを経営していたのである。きれいとは義理にも言えない店だったが、他所の店に入るより顔見知りの方が入りやすく、三回ぐらい日曜日にその店に行っただろうか。
三回目に彼は、
「払わんでいいぞ」とぼそりと言った。
「そうはいかないよ、商売をしている人に払わないなんて」と私が言えば、
「俺が言うからかまわん」と言う。
私達のやり取りを二世の男ふたりがニタニタしながら見ていたが、私の出したお金をその中の一人が受け取った。それを同船者の青年は苦りきって見て、
「払うなと言うたぞ」と私を外に送りだした。それがこの青年と会った最後であった。ペンソンで夕食時に会った大きいお兄ちゃんいわく、
「日本から、かなりの金を持って来ていたと思うよ、田舎の田畑を売って来たらしいから。あんまり確りした人じゃなかったから、あの二世の二人に、騙し盗られたんと違うか? 日本へ帰ったと思うよ」と語った。
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