日本から来たばかりの若い男にとって、気なることは家賃ばかりで、娘心を知らない男のすること、ましてやこの上なく便利な暮らしの日本から来たばかりの花嫁には、郊外の辺鄙な低所得者の町には住みにくかったと言える。
「あそこ、引っ越してなあ」と彼が言い、
「ふうーん」と私は返事をして、それきり彼に会わなかった。
ペンソンの主の話では、リオデジャネイロの石川島造船所に勤めることになり、リオに行ったとのことで、給料も上がって順調な生活をしていると思った。しかし次に入ってきた熊五郎と花嫁のニュースは、その花嫁の敦子さんが交通事故で大腿部を大骨折したとの内容だった。
「この国じゃ、見舞金も示談金も何も出ないからねえ、良くなって退院はしたそうだけどよ」
「可哀想に、普通に歩けないそうよ」
「敦子さんのお兄さんが迎えにきて、日本へ帰ったそうよね」
「相馬さんも敦子さんの後を追って帰国したそうだよ」
「日本で離婚をしたということだよ」などと時間を置いて、まだペンソンの主と繋がりをもっている同船者が聞いてくるニュースが次々に入ってきた。
熊五郎こと相馬啓次に久しぶりに出会ったのは、ブラジルに来て二十三年経ったころ、私の発案で初めての同船者会を開催した日だった。ベトナムの首相に似ており、船ではグエン・カオキと綽名された河上さんが、
「ガルボン・ブエノ(東洋街)でばったり熊さんにあったんで良かったよ、同船者会を知らせて連れて来た」と言った。河上さんと来た熊五郎は、
「ブラジルが忘れられんでなあ、また来てしもうた。この国の田舎でのんびり暮らせたら、それでいいんよ」と言い、しばらく彼が近郊で働いているというニュースが、ペンソンの主から同船者を経由して伝わってきていたが、次には、
「世の波には勝てんわね、熊さんは日本へ出稼ぎに行ったそうだよ」と伝わり、これが最後になった。
河上さん夫婦も日本へ引き上げ、ペンソンの主も亡くなり、熊五郎はブラジルにいる同船者の誰の電話番号もアドレスも持っていなかっただろうし、誰にも連絡を取るのは難しいだろう。
日本とブラジルを行ったり来たりして、ずい分無駄に年月を過ごしたのではあるまいか。この経験が以後の彼の社会生活に何らかの形でプラスになっていることを私は願っている。
第十一章「料亭青柳」
日本で習い覚えた美顔術の稼ぎで生活していた私に、料亭青柳に行くことを勧めたのはペンソンの女主人の君子だった。住み込みの仲居たちが、ゆっくり昼食をとったあと、夕方からの仕事に入るまでの時間にいけと聞き、美顔術の道具一式を抱え持ってバスに乗り、サンパウロ市内ジャバクアラ区の料亭を訪ねた。
細長い控え室に、恵比寿顔をした誠ににこやかな老人がお茶を飲んでいた。後に知る、これが有名な通称「青柳のパパイ」(お父さん)と呼ばれている人物であり、ここの女将の父親であった。「青柳」は古い広大な邸宅を、繁盛にあわせて改築しながら、料亭とクラブを一つ屋敷の中に作り合わせた大きな規模だった。
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