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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=44

 一九五五年九月に「コチア青年移民」の名で始まった独身青年の移民は、一九六八年一月に最後の青年移民百十人が渡航するまで続いた。この十四年間に二五〇八人の青年が移住していると「戦後移住五十年」(一九五三年~二〇〇三年)に記されている。

 全国から集められた移住を志す青年たちの年齢は、十八歳から二十四歳程度であった。教師、大工、機械の修理工、農村青年など、ありとあらゆる職業の者が、講習所で一年間の専門的な講習を真剣に受けて移住に備え、四十五日から五十五日の航海の中で同じ釜の飯を食べながら海を渡ってきた。そのため、仲間意識と結束意識は現在も強く続いているそうである。
 その青年達は、トランク一つ下げての「裸移民」とか、五十ドルしか持っていない「五十ドル移民」とか言われたそうだ。青年達にはコチア組合が指定する農家で四年間働くことが義務付けられ、配耕先の農家では家族的な待遇で迎えられることになっており、その後はパトロンとなった農家や組合の協力により独立することが約束されており、その独立したコチア青年の一番の問題は結婚相手を見つけることであった。
 すでに述べたように、裸一貫で移住して独立をしたばかりの彼らにとって、いくら家族的待遇をしてくれたとは言え、パトロンの娘は高嶺の花であり、その娘達との結婚を望むことは難しかった。また二世や三世はブラジルの教育を受けたブラジル人であり、物の見方や考え方が一世と違っていた。一世の青年達が日本から花嫁を望んだ理由にこうした背景があり、私が親しくしている七十四歳の北三男さんは、
 「来た当時、いつも母に嫁さんを探してくれ!と叫ぶように手紙を書いたものですよ」とのことである。ある大学の芸術学部を出た北さんは、
 「私の場合、自費で来たから、どこの誰にも縛られない代わり、自分ですぐ仕事を探して働かなくてはならなかったため、ブラジル人の工場に入り、ブラジル語が一言も解らないから、馬鹿にされてさ、職工の中でも最下位からはじめ、悔しいから、週明けには必要な単語を全部暗記して行ったさ。それで見直されてね、その後はアミーゴ(友達)の付き合いで土曜、日曜はいつも家に呼んでもらったりして、ブラジル人っていうのは、慣れると実に良い人たちですよ。一年半働きかなりしゃべれるようになり、も少しましな仕事に替わったが、ここもブラジル人の会社だった。その内に読み書きすべて出来るようになり、ブラジル人に慣れたためか、もう母に嫁さんを見つけてくれなんて書かなくなって出会ったのがマリアだった。二世でもまるで日本人ではない感覚だったが、良い結婚生活だったよ。先に死んだのが辛いですね」と打ち明け続けて、
 「日本人の家庭に入り、日系コロニアの中で生活を続けていれば、やはり日本からの花嫁を望みつづけただろうね。私は最初からブラジル人社会に入り、ブラジル人に慣れたから、ブラジル人そのものの二世でも妻として受け入れられた、それを思えば、私のようにブラジル人社会になれた人間なら、二世やブラジル人と違和感なく結婚できますね」と言う。北さんは、その後帰化したという。
 コチア青年花嫁移民のはじまりは、一九五五年に移住して、すぐ独立した青年と婚約していた花嫁が一九五九年に第一回花嫁移民として来ていることが「コチア青年移住五十年、一九五五年~二〇〇五年」史に記されている。