マルガリーダ女史の亡きあと、「憩いの園」という名の老人ホームは、この人なくては成り立たなかったかも知れない。親に連れられて香川県から四歳で移住し、他に違わぬ同じように移民の大変な苦労をしたそうで、
「町まで二十キロの道を、叔父さんと売る馬を引いて歩き、疲れ果てるし、お腹は空くし、しくしく泣いた七歳の日、あの時外米のごはんに、いわしの缶詰をのせただけの、あのご飯の美味しかったこと!」と、そんな話を聞いたこともある。
大浦氏の青年期には、私はまだ小学へ入学する前四、五歳ぐらいだろうか、戦闘爆撃機B29を見たように思う。大浦氏は戦時中の日本語禁止の最中に日本文学に没頭したといい、口の端に隠れている糸を引きさえすれば、啄木ならば、たちまち百首は次々に出てくるという御仁である。親に縁の薄かった私は、このコロニアに「パパイ、ママイ」と呼ばせてもらえる知人を何人も作ったが、存命しているのはもうこの人だけになった。
「うちの村にも、花嫁移民はいたよ、戦前のことで、わたしが二十歳前頃のことかな。その頃には、まだ花嫁移民という言葉はなかった。呼び寄せ移民と言っていたかなあ。花嫁移民というのは戦後に出来た言葉だね」と大浦氏は話しはじめた。
「日本へ里帰りで何十年ぶりかに戻った人が、土地を十アルケール持ち、養鶏業で成功して鶏を一万羽飼っているのだと言って息子の嫁を探したのよ。それは嘘ではなかったけれど、そう聞いて嫁に来た女は、想像したこととはまるで違った生活に驚いたのか、一週間足らずで風呂敷包み一つを下げて、サンパウロ市へ出る道を歩いて逃げて行くのを、近所の人が見たそうだ。領事館に駆け込んで日本へ逃げ帰ったんだろうよ。それっきり噂も聞かなかったなあ」と話した。
「領事館で帰国の旅費を出すとは思わないよ。日本の親御さんに連絡でもしてくれたのかしら、或いは青柳あたりへ落ちたか知ら?」と私は言った。
「青柳にはそういう花嫁がたくさんいたね」と大浦氏、急に顔を曇らせて、
「初期の移民は土地を増やすことに力を注ぎ、衣食住のうち、衣と住は後回しだったからな。邸宅を作るのはずーと後のことで、みんなサぺ小屋(かやぶき小屋)よりましな、夜は星が見えるような家に住んでいたものよ。嫁さんも大きな労働力で、私の家内は二世だが、舅、姑、何人もの小姑に仕えて働くのを当たり前としていたが…」と言う。
私はウルグアイの池田洋子さんの「こんな小屋に住んで」という嘆きを思い出していた。
「それに、大金をつかんだら日本へ帰ろう、帰れると、ほとんどの人が考えていたから、家はどうしても後回しにしたこともあるだろうよ」とも言う。
小屋のような家でも辛抱をし、十アルケールの土地と一万羽の鶏を持つまでにこぎつけているなら、邸宅まではもうほんのちょっとの辛抱であっただろうに、逃げた花嫁は共に働き、築き上げて定住する覚悟がなかったというべきか。目先しか見ない人間の哀しさというほかはない。これこそ勝手な夢のみを描いていたと言うべきではあるまいか。
「玉の輿に乗れると思って来たのかしらね、その女性は」と言い、私はこの時ようやく上村祥子が私のことを、「夢を見て憧れて来たから失敗したのだ」と陰口を言ったという言葉の意味が理解できた。私の場合、土地や農場の大きさなど聞かされていず、ただ花作りをしていると教えられているのみであった。それだけでどんな夢も描けるはずがなく、描いたのは花を抱えたわが姿だけであった。