「村に、も一人花嫁がいたが、こちらは落ち着いて邸宅を建てるまで頑張った。ユリさんも名前ぐらいは聞いたことがあるだろうよ、日本の大きな短歌の賞をもらったこともある人よ」と結んだ。
この夜、奥地へ農機具を販売する日本の進出企業に、勤めたことがある七十四歳の北三男さんに電話をし、取材のため長話をした。
「四十年前、奥地に農機具を売る仕事で行き知っているが、農業の人たちは大変だったさ。農業政策なんて無きに等しく、銀行から収穫を見込んで金を借り、農機具や肥料を購入しても、天候に左右され作物が出来なければ、二、三年は立ち直れないし。健康なら良いが、誰か家族の一人が体を壊しでもすれば、どんどん落ちて、絶望した主がピンガ(焼酎)びたりになり、子供を学校へ入れることも出来ず、月や星の見える小屋のような家で呻くばかりの、人間の尊厳すら無くしているような農家の主を何人も見たよ」という私がサンパウロに住み始めた一九六七年前後頃の、奥地の現実にあった農業移民の一部を聞いた。
農作物が不運な結果にみまわれているところへ、呼び寄せた花嫁が来たなら、花嫁にとって不運であり悲劇でありすぎる。強い愛情で結ばれた縁ではない分、逃げる花嫁があって当然と思う。実際にそういう花嫁もいたそうである。二世に嫁いだあの広中和子の夫を思い出しながら、私はその話を聞いていた。
「そういう事情の中で育った人だったのも知れない」と、和子の夫が小学校も出ていないことが理解できた。
嫁ぐまえの広中和子は、私と同じく夫となる人との文通をしていなかった。私の場合は叔母の家でもあり、従兄であることで、文通をしなくても安心したところがあったが、和子は、
「相手が二世で、日本語は話せるけれど読み書きは出来ないと聞いていたから、文通が出来なかったのは仕方がなかったんよ」と彼女から聞ていた。北三男さんが奥地で見たような、移民の苦労を和子の夫は子供の頃にしたのだろう。亡くなる前には文盲者を対象の学校に入り、ブラジル語を学んでいたという。
サンパウロ市内から七十キロ、海抜約千メートルはあるだろうか、アチバイア市は別荘地と花栽培で有名であるが、訪れた先は、本道からかなり奥に入ったところだった。赤土の道を山にいり着いた先に、いきなりプール付き、幾つもの娯楽室つきの坂本家の大邸宅へ案内されたことがある。日本では相当の資産家でないかぎり作れない構えに思えたが、
「ようよう、ここまでこぎ着けた」と、熱帯魚養殖をしている主の言葉に奥さんは、
「お父さんが頑張りに頑張ったお陰よ」とにこにこしている。いま思えばこの一世の主婦も花嫁で来た人であったに違いない。夫を「お父さん」と呼ぶのは一世で、ブラジル生れの二世なら普通夫の名前を呼び「お父さん」とは言わない。
「長男、次男は家業の手伝いをしてくれていますが、三男と長女は下宿をしてサンパウロ大学へ通っていますのでね、明日にはかえります」と言った。
移民をしたほとんどの一世達は、言葉に不自由をし、騙されながら生活をしてきた。これを「高い月謝を払った」ということは前にも書いたが、そのために彼らは息子や娘達を大学へ進ませた。どの大学でも日系人学生は非常に多かったそうである。この国で生きていくには、弁護士か医者になってもらわなくては困ると、どの親達も法科と医科を勧めたそうである。