(三)は、武田さんに勧められて半年後のこと、武田さんから紹介された三菱商事の奥様方の紹介で、一九六八年五月に結婚することになった。今まで思いもしなかったが、この文章を書きはじめてみたら、すべて武田さんに繋がっていることに気付かされた。
この三つの思い出のある武田さんは、私が知らない間に日本へ引き上げて亡くなっている。武田さんが「あの日の娘だねえ、あれから四十数年も経ったが、どうやらやっているね、うんうん」と目を細めているような気がする。
三菱商事の奥様方の紹介で見合いをした私は、にこにこしているから人間的に出来ている、と判断して結婚を決めて三ケ月後に式を挙げた。夫側は「見合いも八回目であり末広がりで縁起が良いだろうし一世だし、この辺にして置くか。盲腸の手術の時に心細い思いをしたし」とそれだけのことだったそうである。
メキシコで国際ビエンナール展が開催されるが、メキシコに移住出来なかったから、もう一つのビエンナール展の開催地であるサンパウロへ来たという三歳上の画家だった。結納に靴を三足もらった。私が日本から持ってきているのは、カラバンシューズ、パンプス、カッターシューズ、ポケットシューズで、サンパウロの石畳道には、ポケットシューズが歩き易く好んで履いていたのだが、これがその画家の目には貧しく映ったそうである。北三男さんは、結納としてマリア夫人に有名なエルジンのミシンを贈ったという。しかし夫人は存命中に、それを一度も使用しなかったと言うから、結納に私のもらった靴は、おおいに利用価値があったと言える。
結婚式は三菱商事の駐在員であり経理主任の高橋真弓御夫妻を仲人にお願いし、この結婚を勧めた島田敏男、清水光雄の両御夫妻が出席してくださった。私の側は、松岡春子氏が訪日のため留守で、松岡家の次男御夫妻、街に住む同船者の青年達三人が出席した。
新郎側はコロニア暮らしが長い分、さすがに出席者が多かった。友人の画家でこの日司会をした金子健一さんは、初期移民を描いた映画「外人」に出演して以来俳優として活躍しているが、
「花嫁のお友だちは素敵なドレスのお嬢さんかなと思いきや、どういうことか野郎ばかり!」と言ったために会場に笑いが巻き上がった。同船者で街に住んでいるのは大、中、小のお兄ちゃんたちのみであり、この一九六八年頃には同船の花嫁はまだ地方に住んでいたため女性の同船者は一人も出席していなかったのである。
わが夫となった画家は政府の貸し付け金を頼らない自費渡航者であったが、子供の時から学んできた、どんなものでもデッサン出来る力だけで食べていけるわけもなく、日本人の実態調査をするメンバーに入れてもらって、サンパウロに来た当時は収入を得たり、地方の町で土産物のコーヒーカップに絵付けをしたり、転々と職業を変え働けない時期は居候をしたりして凌いでいたという。
結婚する頃は、日本語普及会に所属して子供達の絵の指導をし、地方の日本語学校に出張して教えるとともに、一緒に住んだ先輩画家の内職であったローケツ染めを覚えて、先輩がカナダに移住し直したあと、残されたその教室を引継いだらしく自宅で、また出張してそれを教え生活していた。小金が入るから、食事も東洋街の日本食堂や中華食堂と契約をしていたらしい。街に住んでいる便利さを多いに利用していたわけで、日々の生活に不自由はなかったという。