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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=62

 一九六〇年~七〇年代の元、花の駐在員夫人に、
 「蚤だったのかしら、サンパウロからニューヨーク間でモドモドして困ったわ」と言えば絶句してしまった。一九六・七〇年代に飛行機に乗りブラジルと日本を往復できるのは、大方はこうした駐在員やコロニアでも富裕の人達ばかりだったからである。
 だが庶民用とでもいうか、十回払いの月賦のチケットもあり夫はこれを便利に使っていた。この夫人の絶句は「客層がちがってきた」ことへの驚きなのだった。
 この初期の出稼者の多くは、その労働力を必要とする企業や、出稼ぎ斡旋業者から旅費を立て替えてもらい日本へ向かった恵まれない層とも言えよう。現在バスの中で蚤を貰ってしまうことはまずないが、気候のよいブラジルでは繁殖しやすく、それに対しての駆除が行き届いていなかったか、この七〇年代頃はバスでも映画館でもよく蚤をもらったし、冬には私の息子達も公立小学校で虱も髪に移されたものである。
 随分話がそれたが、元に戻すとサンパウロ大学を出た長男が一九九二年から大船の松竹撮影所に留学したため、わが夫もこれについて大船に住み、西新宿の歯科医院の先生のご厚意で、その二階をアトリエとして提供されて描き続けていた。

 さて今夜は、うまく二十歳の私へタイムスリップできたばかりではなく、五年前に訪ねたアチバイア市の大邸宅ですごした素敵な半日までタイムスリップできた。この家を建てた一九七二年頃や、八〇年代の出稼ぎのはじまる頃にまでタイムスリップして、もう午前二時半を過ぎてしまった。この辺でベッドに入らないと、また目を回してしまうかも知れない。

  第十六章 山ウナギ

 アクリマソン区のアパート、ダイヤモンドでお手伝いとして働いている時、ブエノス・アイレス停泊中のブラジル丸で泣いた花嫁、パラグアイへ行ったダッコちゃんこと山並明子に手紙を出したところ、
 「ウルグアイの婚家先を出たオバQさんの決断が正しかったわ、サンパウロへ行っても良いですか?」という返事を受け取った。
 ダイヤモンドで働いている間に、彼女から受け取った手紙はこの一通のみで、耕地に住まう彼女にとって、手紙を書くのも出すのも簡単なことではないはずだということは、モンテヴィデオの草原の中で、短いとはいえ一応は暮らしたことがある私も知っていた。実を言えば私もまた、美顔術でより良い収入を得ようと、居場所を変えて目先ばかりを見て懸命に働いていたので、彼女のことをすっかり忘れていたことも事実である。
 手紙と言えば、たとえ書いたとしても、本人が郵便局へ行くことはなかなかできることではなく、家人の誰かが街に出る時に、「お願いします」と頼めば、ウルグアイの民子のように、開封されて読まれてしまい結果として、さらなる虐めの理由になってしまう。
 ウルグアイで吉本家を出るまで私の場合も、叔父は池田さんに、「ユリから日本へ出す手紙をあずけられたら、出さず私に渡してほしい」と言ったことを聞かされた。ふるい古い日本の大人の醜いやりかたが、日本の反対側まで来ても続き、花嫁は孤立してゆくばかりなのである。