つづいて手紙には、
「この時、私は農場の生活を何かで残したいと邦字新聞で目にした短歌を始めたり、小南先生の研修センターの同期生が、農場に尋ねてきてくれたときに頂いた聖書を初めて読みました。カンピーナスの養鶏場に戻ってから、主人は脳溢血で不自由な体になり、私は鶏舎の仕事を手伝いながら、週一回ですが子供たちに、日本語も教えていました。
この時期どいうことか養鶏業界は不振になり、わたしたちも経営が行き詰まり、四十年続けた養鶏場を止めることになりました・・・。
止めるまでには、いろいろな事がありましたけれど鶏舎に一羽の鶏もいなくなった時、私は日本に働きに行くことを主人に言いました」
南ミナスに居たころを知るある人の話では、Kさんはミナス市内に住み、農園で御主人を手伝うことはなかったそうである。髪を長くのばした奥様の彼女に「なぜブラジルに来たの」と聞いたら「フアゼンゼイロ(農場主)になりに来たのよ」と返事をしたという。そのころはまさに、その言葉が当たり前に通る暮らしをしていたのだろう。
一九九〇年終わり頃から、養鶏業は飼料などの経費がかさみ始め、鶏卵や鶏肉などの売上との採算が合わなくなり、どこの養鶏場も青息吐息となって潰れるところが多くなったこの時期、Kさんの手伝う義弟の養鶏場も例に漏れなかったようである。
Kさんは、夫の家族との軋轢について何ひとつ書いてはいないが、舅が乳癌になったことや姑の愚かさについてポロリと私に漏らすことがあった。だが彼女は信仰をもっており、自らを諌めていたにちがいない。Kさんの次の一首に、Kさんが聖書を読みつつ、一族の中でどう生きていたかが窺える。
手を握りさすりて義父の話し聞く広い所に出られないんだ
この歌を発表して間もなく出稼ぎのために祖国へ発ち、四年後ブラジルに戻った。その時にはご主人は車椅子生活になっていたそうである。しかし母親のいない男の子ばかりの生活であったから、気を利かして用を足してくれる者はおらず、結局は自分の体を動かし用を足さなくてはならず、それがリハビリに繋がったか、ご主人を変えたらしく出稼ぎに行く前より良くなったことを、Kさんもその末の息子も、最近になって私に話した。
「ブラジルに来て二十年経ってから」とKさんは書きつづけ、
「出稼ぎをしている私に東京で、あんたがブラジルに行くと言った時、お父さんは大反対してすごい夫婦喧嘩だったんだよ、と伯母が話してくれましたが、いま子供達が結婚する年齢になり、大反対したという父の気持ち、黙って許してくれた母の気持ちが分かるのよ」と結んでいる。
Kさんの場合も、彼女の出稼ぎによって暮し向きはグンと良くなり、実に真面目な良い子であった三人の男の子が、成長にするにしたがって、交代しながら出稼ぎに行き、現在はかなりゆとりのある生活になり、彼女はもとの日本語の教師をつづけている。
ただKさんが留守のあいだ淋しかったか、上の二人の息子がブラジル人の娘とナモーラ(恋愛)をはじめており、結婚すると言われ、叔母に聞かされた、かってKさんのことで争った両親のことを思い出し、ことに母親の思いが身にしみたようである。