渡伯60年で200万羽養鶏を実現――サンパウロ州カンピーナス市郊外スマレーで「グランジャ・スマレー」を経営する伊藤悟さん(78、広島県)は戦後移民を代表する農業経営者の一人だ。数多の日系養鶏家が生まれたが、規模拡大の荒波にもまれ、ほとんどが廃業し、生き残ったのはわずかだ。そんな中でこの11月19日に渡伯60周年、来年1月にグランジャ創立50周年の節目を迎える伊藤さんにその極意を訊ねた。
「広島の高校を卒業して名古屋の鑑別学校を途中で辞め、従兄弟のグランジャ・イトウの呼び寄せで渡伯した。18歳。〃冷や飯〃食わされた三男ですよ」と笑った。当時、日本の雛の鑑別技術は世界最高で、「身のためになった」と振りかえる。
同校の先輩はコチアや南伯農協で優遇され、「コチアの下元(健吉)専務より良い給料貰っている先輩もいた」と思い出す。グランジャ・イトウで昼夜を忘れて働き、カンピーナス支店を任されて経営を覚え、10年後に独立した。
経営の秘訣を問うと「いかに人件費を削るかに尽きる」との返答。鶏舎といえば「木造で壁のない吹きっさらし」の印象だったが、ここでは近代的な巨大倉庫、農場というより「工場」だ。
暖気に包まれた育雛舎に入ると「これを建ててからやっと安定した」と伊藤さんはしみじみ振り返った。一棟当たり12万羽、米国種ハイラインの雛を買ってきて、120日間ほど育てる大事な場所だ。建物外に蒸気機関のようなボイラーがあり薪が焚かれている。
中に入ると人影がない。育雛舎は4棟あり、病気に備え、100米ほども間隔を置いて建てている。
成長したら別の場所に立てられた成鶏舎に移して、そこで10日余りすると産卵を始め、約2年間で廃鶏にする。10万羽収容の近代的な成鶏舎は20棟ほどずらりと並ぶ。無数の鶏の鳴き声と機械が動く音だけが響く。それでも450人の従業員がいる。
オランダ製などの機械を導入し、糞集め、卵集め、卵移動も全自動だ。卵は100米ほど離れた工場にベルトコンベアーで送られ、洗浄、選別、消毒、乾燥などの自動工程を経て出荷箱に詰められる。ハエがおらす、臭いもほぼない。
「付近の農家からトウモロコシなどのエサの原料を直接に買い、卵はサンパウロ市、ソロカバ、サンベルナルドなどのスーパーに直接配達する。中間業者を極力排除している」と工夫を語る。
「ポルトゲースは小学校4年まで」と謙遜するが、伝えたい内容はしっかり説明する。ブラジル人従業員扱いに関して「強く言わないこと」を挙げる。「3年ほど前から13カ月給与以外にもう1カ月分を払うようにした。皆言うことを聞くようになった。十分元が取れるよ」と笑った。
環境を汚すと問題にされがちな鶏糞は、乾燥して発酵肥料にする。「堆肥効果が違うと農家から好評。他にないと思う」という先進的な取り組みだ。さらに伊藤さんは「自分が本当に理想とする鶏舎をもう一つ作ってみたい。でも息子たちが許してくれないんだ」と熱意は衰えない。
5人の子どものうち息子3人が経営の柱となっている。会計を担当する次男秀樹さんは「父の歴史はルッタ(闘争)そのもの。むしろ僕らが抑える側に廻っている」と頭を掻く。移民起業家の生涯は、死ぬまで前進あるのみのようだ。