話すのみの夫の日本語筆談となりてひらがな書き始めたり
最近、Kさんの発表したこの歌の意味を電話できくと、ご主人のTさんは、親に連れられて来た子供移民で小学校の高学年で移住してきたようである。夫より学歴があり邦字誌「のうそん」に、たびたび短編小説を発表する彼女は信仰心も厚いが、ふと顔に教養のちがいを出してしまうことが、なかったとも言えないような気がする。ときにそのような彼女の表情に出合うことがある。
二〇一〇年二月、Kさんからきた長い手紙に、寝返りをすることも独りで食べることも排便もできない夫が、南ミナスの農場を売る書類にサインをしない、「サインをすると言ったのはKに脅かされたからだ」といわれ、それがショックだったことが文面にみられた。大農場とのことで売却すれば、長男の嫁である彼女は、現在のこの苦労が報われることが多いと思う。
元、ベレンに花嫁移民をした斉藤けいさんから次の便りを頂きました。
今から五十年前の開拓初期のお話です。斉藤けい
一九三四年生まれの私は当時二三歳でした。なぜ自分が生れてきたのか、どこへ行くのかわからず悩み、現在言われている鬱病になっていました。そんな状態のなか友人たちのようにお見合いをして結婚する気には到底なれず、朝は東、夕には西に向き、神様私にふさわしい男性と引きあわせてくださいと祈っていました。
しかし何も変わったことは起こらず、私は自分で動き求めようとブラジルへ行く決心をして、県庁の移民課を訪ねました。私の意志を聞いて、あなたは丁度よいところへ来た。ブラジルから昨日届いた花嫁を望んでいる手紙があると、パラー州ベレン郊外で胡椒を作る農場に働いている二六歳の男性の写真や手紙を見せられました。その手紙の男性は兄夫婦の家族と構成家族移民をした人でした。
私は毎日祈っていましたから、これこそ神様が引きあわせてくださった男性と考え、その場で決心して申し込みました。家に帰りこの決心を両親に話し兄弟、親籍に猛反対され、それはそれは大変な騒ぎになりました。
そんな大反対を押し切り、私はブラジル丸にのり、一九五八年二月ベレンに住む斉藤安正の元に嫁ぎました。ブラジル丸がベレン港に着いたのは赤道直下の太陽がギラギラと照りつける午後三時でした。
誰ひとり出迎えに来てくれていませんでした。夫なる人が迎えに来たのは夜七時でした。
野菜を朝フエイラに出すため髭ぼうぼうで長靴を履いたまま迎えに来ようとして、知人にいくらなんでも花嫁を迎えるのに、その恰好で行くのかと注意され、家に帰り身仕度を整えたそうですが、一日に何本もないバスに乗れず、この時間になったということでした。
夫なる人が迎えに現れるまで、数時間、わたしは港の倉庫で、座ればそのまま倒れそうな気がして、立ったまま聖書を読みながら信じて待っていました。それは船のなかでも聖書を手放さず読み続け祈ったことを、そのまま続けてしただけのことでした。
夫なる人はベレンの郊外に兄夫婦とその二人の子供とサペ小屋にすんでいました。兄嫁は私を見ても、ようこその一言さえなく黙っていました。