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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=73

 私たちはこのような理解ある温かいことばを聞けるまで何十年かかっただろうか。このことばを素直に喜びたい。
 毎年十一月第四日曜日は、小南ミヨ子氏の送り出した花嫁移民「ききょう会」の忘年会である。これに出席のため千五百キロ、二千キロ先から、もう若くない花嫁たちが集まってくる。
 小南ミヨ子女史の送りだした花嫁の会「ききょう会」に参加させていただき、少しもの悲しい響きのある、しかし悲しさばかりではない逞しい響きもある「花嫁移民」七十歳代の方たちと時をすごしたがお墓に入り、あちらで出会っても「花嫁移民」という言葉で連帯感をもち抱きあい慰めあうに違いないと感じた。

 一緒にブラジル丸で来た同船者三十六人は、すぐ帰国した人。一年ばかり居て帰国し日本で成功した人。広大な農場を捨てて帰国した家族。ブラジルからアルゼンチンへ移り、あしたのパンも買えない、赤ちゃんのミルク代もないほどの苦労の末に大成功をした人。奥さんは二世だそうだが、よく耐えたものです。三十六人の同船者の中にこのような成功者がいることは嬉しい。
 村尾国士著「メイドイン、南米」で読み裸一貫で多国籍企業を築き上げた努力と、ブラジル日系二世である奥様の内助の功を、私は諸手をあげて褒め称えたい。他に妻子のみが帰国して独りになってしまった人。山男だったそうなのに、ご自身のパワーを出さず静かに暮らしている人。宗教家であるために、悟り切ったのか離れてしまった人。
 その人に「空っぽの器」と言われた私は、空っぽだから、「たくさん入るよ」とも言われたけれど、たくさん入ったかどうかいまだにわからないけれども、夫亡き後もどうにか前向きに暮らしているつもりである。
 夫亡きあと数々の失敗があっても私らしく生きていると思い、お金や財産は残して貰えなかったが住む家を遺してくれた夫にも感謝。息子達ともども家なき子にならずありがたい。私にはもう少し生きてゆく時間があるようなので、いつも景気よく器を逆さにしどんな物が入るか「空っぽの器」として生きていこうと考えている。

  あとがき

 パソコンの操作もままならない私が、移民百年祭を間近にしてこの「花嫁移民 海を渡った花嫁たちは」を書き上げました。これまでにも花嫁移民の自分史は多く出版されているようですが、私は個人の歴史だけでなく、花嫁移民の起こりから、花嫁として来る動機、花婿側の事情、港での出合いの印象から、耕地での生活のはじまり、同船の花嫁や、知り合った花嫁たちのことも書き残したいと考えました。そのために、あまりにも書きたいことが多く拙い文章がますます雑然としたものになってしまいました。
 花嫁移民のみなさんが自分の意思で来たと答えますが、本人の知らない運命を持ち、私たちは海外に出ることが約束されていたのかもしれないと思うことがあります。
 私たちのように、思いきった冒険をして海外に出た当時の女性が、特別かわった人生を歩いて来たと思っていませんが「花嫁移民」という言葉は普通ではない生き方を、聞く人達に感じさせるようです。花嫁移民と言葉を最初に使いはじめたのは、サンパウロ総領事館に、一九六五年に赴任し一九九五年まで勤務した大沢大作領事だったと、氏の娘婿から直接お聞きしました。まさに一言で言い現わし当て嵌まった言葉を造られたといえます。