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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=74

 しかし、この言葉は私たち花嫁には礫となり飛んできて辛い言葉に長くなりました。先に書きましたコチア青年花嫁五〇周年記念祭を境に、言葉の礫はおおかた無くなり、花嫁移民ですと平気で言えることができているようです。
 おお方の花嫁が辛苦を舐め耐えぬいて、現在「この国に来て良かった」と口を揃えて言い、私もやはり同じ思いを日々重ねていると言い切れます。縁があってブラジルに花嫁移民として来ましたが日本国内で結婚をしても、それなりの環境の中で努力をして家庭を確り築いていたと、これもまたはっきり言い切れます。
 私は子供のころ積極性のない、かなりぼんやりした平凡この上ない女の子でしたから、なおさら郷里の町では生涯そのレッテルが額にペタンと張り付いて剥がれず、萎縮した暮らしをしていたといえます。
 少女のころ私は何になりたいという具体的な希望はなく、複雑な家から出て行きたい、どんな事情ができても何歳になっても、この町へ戻りたくないという思いが心の奥に強くありました。
 したがって土地の男性と結婚はしないと考えていましたが、何しろぼんやりとした少女は、勧められるまま成り行きで大阪に出、実母の妹に出会ったことにより、従兄の嫁としてウルグアイへ花嫁移民として渡ることになり、少女のころ心の奥に秘めていた「遠くへ行く」思いへ自然に航路をとり、そして落ち着いた先がブラジルだったということになります。
 この拙いエッセイの、新聞へ掲載依頼が編集長の深沢氏よりあり、書いたものをもう一度読み直しているとある日、未亡人になった七〇代の花嫁移民が、
「この数年カラオケの仲間として、もと青柳に勤めていた老婦人と知りあったけれど、お金持ちの男を次々旦那にして昔からお金に困らない生活をつづけているそうで、青柳を知っていたら私も夫や、その家族から逃げて働いたのにねえ」と冗談のように言い、私も、「そうだわねえ」と応えた。
 が、そういう旨いことをした女性ばかりではなく、同じ店で働いていたにもかかわらず、恵まれない人生を歩んだ女性や不幸と言えぬまでも、お金の心配が絶えなかった女性もいることをみれば、男性を上手に動かせるのも、それも一種の特殊な能力にめぐまれた女性であるはず。人はそれぞれが負うべき荷を背負い生きており、その人に背負いきれない荷は背負わさないと聖書にある。
 貧乏画家と結婚して、ローケツ染めの内職をしたり画一本で生活をささえることになった時には、「家に籠っていては画は売れない」と何かの本で読んだ大画家、林武夫人のその苦労話の手記を、身にしみさせ、子供たちを家にのこし夫と共に、また単身で南米銀行をはじめ進出企業など様ざまな会社へ頭をさげて画の売り込みをした頃がある。
 ローケツ染め内職をしていた頃も画を売り歩いた日も、実にエゲツナク奥様方は御主人様の身分を盾にか、いやその身分に自ら小さな汚点をつけることに気付かず、槍でこの身を貫くような言葉を浴びせる人もいた。
 それでも頭を下げて画を売らなければならず、それは耐えなくてはならない弱い身上の同じ人たちへの思いやりの心を持つことに繋がった。
 思えば親もとを離れて大阪でお手伝いをした頃のあの家の人たちの私への躾は、ことば使い箸の持ち方、お茶碗のあげおろし、障子の開け閉め、挨拶の仕方などそれはそれは厳しかったが、お茶碗の洗い方さえ知らない何にも出来ない私を、何処でどう暮らしても物怖じしない人間に育ててくれたと思えるようになった。