「旅券を持って、来てくれ」
朝、まだ早いのに、店長からの電話だ。
彼は早口にいって電話を切った。用件を訊くいとまもなかった。一瞬、不可解な電話を反芻した。旅券を持って来い、というのには海外出張に違いないが、それにしても。単なる出張なら、まだ夜明けまでに一時間もある暗いうちに、電話でもあるまい。
カーテンをあけて窓の外を見た。
人影のない、石だたみの道を淡い街灯が照らすだけだ。
間もなく、顎に下げた鈴をチンチンと鳴らす羊の群れを追う。乳売りの老人が通るころだ。
私はいつもより三十分も早く出勤した。
店長は無言のまま、店長室に入るように顎で示した。向かい合ってソファに腰をおろしたが、いつもの店長の敏捷で事務的な身のこなしと違うのに気づいた。
「何か……?」
彼が黙っているので、私の方から問いかけた。
「日本へ行くんだ。旅券を持ってきたね。手続きはこっちでしておく。君は旅の支度をして、なるべく早く来てくれ。皆にはアメリカへ行くといっておく」
店長は私が差し出した旅券を受け取ってテーブルの上に置いた。
シカゴ本店には、いつも店長が行く。
「本店に、何か用件で……?」
信用調査係長になったばかりの私に、店長代理がつとまるわけはない。
「シカゴじゃない。日本だ」
日本……そうだ。店長は日本と言ったはずだ。
私にはあまりに唐突だったので、「日本」といったのが呑み込めなかったのだ。
「要件はあとで話す。とにかくなるべく早く来てくれ」
押しかぶせるような店長の語気は威圧的で、絶対命令の鋭さだ。
彼の部下になって三年になるが、こんな横柄な態度は初めてだった。私は反発した。
「日本へ、今日? それは無理ですよ」
「いや。両親と会うのも十何年ぶりじゃないか。ただし、兵役につかまらんように、早く帰ってくるんだ」
私は三十才になっていた。
昭和6年、大学の予科生だった私は、憧れていたサンパウロのエメボイ農大の入学試験が、東京で行われることを教授から知らされて受験し、幸いに合格して、その年の六月、ようやく両親の許しを得て、大坂商船のラプラタ丸でブラジルのサントスに着き、サンパウロに来た。
小学生時代から、ブラジルで農場を経営しようと夢見ていた希望の第一歩が実現したのだ。
しかし、日本を出た直後に満州事変が起き、それが拡大して日支事変となって、日本の若者たちが満州大陸で戦っており、かつてのクラスメートたちも召集され、誰、彼が戦死したなどと知らされると胸が痛んだが、ブラジルで大農場を持って最高品質のコーヒー豆を生産して日本人の農業技術を示すことが自分の使命だと納得させて、その痛みに耐えた。