ブラジルの農業移民は、ドイツ人もフランス人も日本人も、農業省の管轄下にある移民会社から割り当てられた耕地で、苦難なコロノ(小作人)として十余年、牛馬のように働いて独立農としての資金を蓄える。その実態は一般市民の遠く及ぶところではない。
まず、朝食前の暗いうちにその日の作業場まで数キロの道を農具を担いで歩くと、そこで持参の朝食をとる。
正午までに三十分の休憩があるだけで、昼食はその間に済ませる。午後も三時に三十分の休憩中に軽食をとり、太陽が落ちて足元が暗くなるまで働き続けて帰途に着く。その間、拳銃を腰にした騎馬の監督が巡回する。
何千、何万ヘクタールからもある広大な耕地では、その日の作業区から居住区まで歩いて二時間もかかるのは珍しくない。それから夕食の準備にかかる。
大耕地には二年制の小学校があるが、五年制の義務教育が受けられる学校まで児童の足では、一、二時間はかかる。中学のある町といえば、併設の寄宿舎があるが、それは耕主の子弟だけに許され、コロノ家族にとっては夢のまた夢の存在である。コロノの子弟は十歳になれば一家の労働力に加えられて両親と共に耕地に出る。
耕主の子弟であるエメボイ農大生は、卒業と共に自らの耕地に帰っていく。三年生農大の生活は耕地経営上の貴重な体験になる。
日本の財界を背景とする日伯銀行に勤めるようになったのは、前述のようにミナミ店長の推挙によるものだった。
この銀行は日系農場主を株主とする金融機関で設立後十余年になる。私は、ここで日系社会の経済的動向を学ぶことができ、日系農家の発展に貢献し得る希望が湧いた。
これまでにも、日系の大集団地のバストス、チエテのような所には産業組合があって、そのバックの役目を果たすのが日伯銀行であり、これは日系企業のみでなくヨーロッパ系の農・工・商の実業界に対しても多大な恩恵を及ぼして来た。
従来の日系農家はコーヒー、カカオ、オレンジ、バナナなどの果物を、産業組合を通じて輸出したり、国内の販売期間により成績を挙げて来た。その反面、組合の存在を知らず、あるいは組合の意味も理解し得ぬ多くの小規模農家は、この国の農産物市場を牛耳る米系ユナイテッド・フルーツが、かつてのインドの東インド会社の後継的地位を欲しいままにしているのに反発しながらも、その搾取に泣くのみで、その対策を考える能力に欠けており、この会社とステート・ユニオンの二社による密接なタイアップで、中南米金融界を支配している。
店長は、いわばアメリカ資本の尖兵として、この亜熱帯地に乗り込んで七年になるが、本国の、このような経営方針に反旗を掲げて、日本は勿論、ヨーロッパからの農業移住者の救済事業に乗り出したのだ。言わば日本人セシル・ローズだった。
ブラジルは金、銀、錫、ダイアモンドなどを埋蔵する南米第一の富裕国だが、他の中・南米諸国の例に洩れず、その富源は、ひと握りの資本家の掌中にある。
私が胴巻きをしめ、ワイシャツのボタンをかけると、にわかにじわじわと汗が吹き出した。
「じゃ、頼む。航海中のことは万事、船長に相談してくれ」
武官は立ち上がりながら「成功を祈るよ」といい、店長とともに出て行った。
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