そのあと、ふと、部屋に漂う異臭に気づいた。かすかな硫黄の匂いが鼻を突いた。その時、パーサーが入って来て、二冊の旅券を船長に渡した。船長はそれを開いて丹念にページをめくった。
「福田さん、これは日本とブラジルの旅券です。航海中に事件が起きたら、日本旅券を捨てて、ブラジルの方を身につけて下さいよ。敏捷に」
私は船長の言葉が呑み込めず、身を乗り出した。
「事件…というと…?」
「ご存知でしょう。アメリカはもう臨戦態勢ですからね。一昨日もコロン沖で靖国丸が拿捕されています。本船も軍需物資を満載してますからね。万一の場合ということです。・・・・まあ、ゆっくりお休み下さい。あとでゆっくり話しましょう」
船長のおだやかな口ぶりに、私は総てを納得した。
「食堂の隣があなたの部屋です。相部屋ですが、我慢して下さい。間もなく出帆です。それから昼食です」
船長は看板に出て行った。時計が正午を指していた。
私は隣の部屋に入った。真白い筈の仕切りのペンキが薄茶色に変色しているが、清潔な感じでよく整頓されていた。部屋のまん中に机があり、その両脇に藁布団を延べたベッドと机の上に私のトランクが乗せてあった。窓ぎわの小型冷蔵庫は飲物や軽食物が入っているのだろう。
私は船長から渡された二冊の旅券を比べてみた。ブラジルの旅券を見るのは初めてだったが、精巧にできていて、サインをすればいいようになっていた。
ベッドに横になり、今朝、船長に起されてから今までの経過をたどってみた。いったい、この胴巻きの中身は何だろう。これを日本の誰に渡すのか。重大そうな仕事に、なぜ自分が充てられたのか。疑問が次々と湧いた。
武官も店長も、もういない。
「持っていくのは、これだ」といっただけで下船してしまった。しかし、武官は船長に私の身柄も胴巻きのことも、一切を託しているのだろう。何もかも弁えているらしい船長の落ちついた物腰に緊張が緩んだのか、いつの間にか睡気がさしていた。気がつくと日光丸はもう動いていた。
円窓から外を見ると、波間に遠く昼の太陽に照らされた家並みと高い椰子並木が見えた。その時、ふと、船の進む方向が反対なのに気付いた。
遠く波間に見え隠れしていたサントス市街との距離がせばまり、ビルの窓までがはっきり見えた。
ボーイが来たので尋ねると、積荷のためにウルグアイのモンテビデオまで戻るのだという。道理でこれは貨物船だからだ。
食事を知らせるベルが鳴った。空腹ではなかったが、食堂に入るとボーイの他には誰もいない。
「福田さん、お一人です。サントスの税官吏が積荷の調査にボートで来たのです。最近ひどくうるさくなりましたね。何度、検査をすれば気がすむんでしょう。ご苦労なことだ。アメリカの指図なのでしょう」
ボーイの言葉に一瞬緊張して腹を撫で、早足で部屋に戻った。荷物の整理をしようと思ったが、おっくうだった。
役人たちが帰ったとボーイが知らせに来たので食堂に行くと、船長とパーサーが待っていた。
2
海は夕色に覆われて暗いアマゾンの河口にさしかかり、マラジオ島の密林が見えた。この島の広さは九州ほどだろう。看板に出て見ると、船は流れの中央を進んでいた。