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パナマを越えて=本間剛夫=6

 夕暮れの灰色の風景の中でユーカリの梢が川風に揺れていた。多くの山脈に源を発するこの大河は、無数のせせらぎを集めて一本の流れとなって大西洋に注ぎ、南米第一のアマゾン川となる。
 こんな広大な川を八千トンの日光丸が、なぜ、どこまで遡るのか。せいぜい100キロで支流の群れに奔ばれてしまう。幽かなエンジンの響きは低速だからだろう。進んでいるというより移動している感じだ。
 やがて、水面は全く黒一色に変わった。残照が漆黒の山波を照らして陸地と水面に一線を劃している。山波の上に、いくつかの星が瞬き始めた。
 船が遡航を始めてから二時間もたったろうか。船は航行を止めたらしくエンジンの音が聞こえず、ピッチングが止んだ。
 その時、円窓に数人の影が何か話しながら、へさきの方へ歩いているのが見えた。甲板に出ると数人の男が星明りの中に動いていた。生ぬるい風が頬を撫でた。
 眼が暗闇に馴れて前の方に小さな灯りが明減しているものが見えた。灯りはあるいは漁火かも知れない。へさきへ廻って人影のうしろに出ようと右舷に出た。そこに作業具を入れる箱のような小屋があったので、そのうしろに身を匿した。なにかしら平常でない気配を感じたからだ。
 さきほど漁火かと見えた灯が、すぐそこに近ずいていた。灯りが舷の方に赤く長い線を浮かべ、波に揺れて明るさを増した。カンテラだ。私は手摺をつたわりながら、ともの方へゆっくり歩を移した。
 すると、すぐ近くで人声がした。耳をそばだてたが聞きとれない。灯は私の立っている手摺の下に来ていた。すると、日光丸の横腹に添った小舟に男が一人立っていた。船員たちの声はよく聞こえた。彼らはロープを小舟におろしているようだ。私は身を乗り出して小舟を見ようとしたが、もう暗闇の中に吸い込まれて見えなかった。その代わりに小舟にいた男がロープを伝って、すばやく甲板に立った。「ご苦労…」という船長の声に私の胸は早鐘を打った。あたりは元の静けさに返った。
 間もなく鐘が鳴って食堂に入ると、船長とパーサーの他に三人の初対面の顔が見えた。
「やあ、今日は夕食が遅れました。寄港のときは日本と違って時間どおりに行かないものでしてね。お腹が空いたでしょ」
 船長は笑顔で新顔の三人を紹介した。
「こちらがボリビアからのコーチさん。隣が機関長の深谷君と電信長の川島君です」
 機関長も電信長も五十歳前後で、コーチと呼ばれた男は私より少し年長らしかった。最後に船長は私をエメボイ大学の学生だと紹介した。
 童顔の私は四、五歳若く見られるので学生といわれても不自然ではない。
 船長は微笑を絶やさなかったが、私はこの場の雰囲気に浸かれなかった。それはコーチと呼ばれる男のずんぐりと丈が詰まり、顔が黒褐色で頬ひげが濃く、インディオの血を享けたような容貌のうえに、コーチという姓も名も聞いたことがない。私に向ける彼の視線も冷たかった。その風貌から滲み出るような未開人の鈍重さを堪えた表情も不快だった。

 日光丸の第一夜の食事は野菜の味噌汁も白米も十一年ぶりだけに特別な味わいだったが、隣のコーチがテーブルに両肘をついて舌を鳴らすのに閉口した。日本まで、こんな男とのおつき合いはごめんだなと、私も舌を鳴らしたかった。