1985年1月11日から10日間、リオに作られた広大な会場、シダーデ・ド・ロックで、ロック・フェスティバル「ロック・イン・リオ」が開催された。このフェスティバルは10日間で延べ100万人以上を動員。南米はおろか、世界的にも現在ほどロック・フェスティバルの文化がなかった頃に、同フェスティバルの成功は世界に衝撃を与えた。
それから30年、当時から現在に至るまで同フェスを主催し続けるロベルト・メディーナ氏が9日付グローボ紙の取材に答え、当時を振り返った。それを2回に分けて紹介しよう。
30年前、メディーナ氏は35歳の若さの企業家だった。父親が成功したリオのショー・ビジネスの興行師で、兄が下院議員という恵まれた家庭で育った同氏は、「軍事政権時代に思うように楽しめなかった悔しさを晴らすことがしたい」の一心でロック・フェスティバルの開催を思い立ったという。
ただ、当時はロック・コンサートを主催するためのノウハウを知らず、ブラジル国内でもそうした国外ロックバンドの興行が盛んでなかったために、完全に一からのスタートだった。メディーナ氏はラジオ局とレコード会社に出向き、「誰を出演させればよいか」を相談。アメリカにある国際的人気バンドのエージェントのところにも出向いたという。
そこで役に立ったのが、1980年に自分自身がブラジルでの興行を請け負ったアメリカの大歌手フランク・シナトラだったという。シナトラの助けでメディーナ氏は運良くアメリカのエージェントとつながることが出き、その縁でクイーンやAC/DC、ロッド・スチュワート、アイアン・メイデンなど、今やロック史の巨人クラスのアーティストのブッキングに成功した。
こうして初回「ロック・イン・リオ」が実現したが、ブラジルではそれまでに実現したことのなかったような綺羅星の出演者を前にしたショーは、100万人規模の驚異的な動員を記録した。
ブラジル側の出演者には、まだ実績の薄かったパララマス・デ・スセッソやバロン・ヴェルメーリョ、キッジ・アヴェーリャがいたが、彼らも「ロック・イン・リオ」での演奏で一気に話題に上るようになった。ブラジル国内のロックシーンも、この時から盛り上がりを見せることとなる。
加えて、開催期間中の15日に、議会の選挙で民主化支持候補のタンクレード・ネーヴェス氏が当選を果たし、1964年以来21年続いたブラジルでの軍事政権が終了。ロックはそうした時代背景上、「若者たちの自由の象徴」としても愛された。
この勢いを経て、「ロック・イン・リオ」はすぐに継続しさらなる繁栄を築くと思われたが、事態はそうはうまくいかなかった。(次回へ続く)。
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