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パナマを越えて=本間剛夫=12

 ミナミ氏がアメリカ人でありながら、日本の戦争に協力して、彼が愛し骨を埋めることになったブラジルへの貢献の報いもついに実現できなかった。その胸の痛みを知るのは、この地上で私だけだ。彼の一途な武士のように生きた生涯を思うと目頭が熱くなった。
 第二次世界大戦でアメリカの日系二世が、アメリカを母国として遠征軍を組織し、ヨーロッパで勲功をたてた。ミナミ氏はその中心的人物だった。それによってアメリカは日系人に土地所有権を与え、帰化促進策を進めた。ミナミ氏はその後も日系社会の中堅だったが、遂にアメリカ人たり得ず、父祖の国、日本のために生涯を捧げて昇天した。その彼の秘密を私はアメリカにもブラジルにも知られたくなかったので、沈黙をつづけたのだ。
 思えば、この四十年は永い年月だった。私の生涯に彼ほど深くかかわった人物はいないし、今後もいないだろう。
 電話は向こうから切られた。とうとう逝ってしまった。これが虚脱というのか。私はぐったり座りこんだ。私にダイヤを運ばせることを企てた男たちの最後の一人ミナミ氏は、遂に地上から消えた。憎しみであれ、復讐心であれ、深い敬意であれ、私の半世に沈黙という圧迫を強制してきた。私は電話器のそばを離れられず、深い地に沈んでいくようだった。
 それから三十分、いや、一時間も虚ろな心を抱いてソファに凭れていただろうか。ミナミ氏との古い日の邂逅を、日めくりを逆に遡って憶いめぐらせていた。

 私はまだ北関東の中学に通う十六歳の少年だった。
 高校進学希望の学友たちと受験準備にとりかかった頃、受験雑誌に連載されていた「外国大学入学の手引」の記事でエメボイ農大の存在を知った。この大学は日本で受験できる唯一の学校だった。その斡旋機関の一つが東京の練馬にある日本力行会というキリスト教系の団体であることを知り、それから毎日のように両親にエメボイ大学入学の希望を訴えつづけて、ようやく許され、この団体を訪ねようと開通したばかりの東武電車に乗った。
 日本力行会海外学校は明治以来、苦学生たちを集めてアメリカに留学させる、いわばアメリカの大学の予備校だった。しかし、大正の半ばからアメリカは日本人の入国を制限して、対日感情が徐々に厳しさを加えていた。いつまでたっても旅券がもらえない学生たちは、業を煮やして密航を企て、メキシコに上陸して国境を越える者や、ロスやシスコの海に跳び込んでアメリカの陸地に這い上がるという非常手段をとる者がふえた。私を励ました牧師兼教師は「地球は神様がお造りになったのですから、誰がどこに住んでも自由です」と、密航を勧めた。今でも、その牧師兼教師の言葉をはっきりと思い出す。
 そんな状況から、私のエメボイ農大入学の希望はますます燃えていった。
 大根畑の中をコトン、コトン、と走る電車の窓から、春霞の向こうに富士山がひときわ高くあたりの風景を圧して聳えたっている。その手前、見渡す限り広がる大根畑の中に学舎らしい二階建ての大きな建物が見えた。「あれだ、力行会だ!」
 幅二メートルほどの野道を十五分ほど歩いて建物の入口に着いて扉を押すと、五十歳ほどの職員が「どうぞ、お入り」と迎えてくれたので来意を告げると、職員は
 「それは、よい時に来られましたね」
 と、いって一枚の紙を渡してくれた。