「やあ、よくお休みになれましたか」
私を激しくたしなめた昨夜の船長の表情はなく、客に対する丁重な口調に変わっていた。私は熟睡できなかった。コーチの鼾で、幾度か眼をさまされては、そのたびに腹を撫でて胴巻の安全を確かめた。
食後、甲板に出た。海はおだやかに凪いて、鴎が数羽、船の前後を行ったり来たり翔んでいた。陸地が近いのだろう。鴎をみあげると、殆ど羽ばたかず、ゆっくり船について来た。ふと、あの鴎になれたら、と思った。長さ百二十メートル、幅十七メートルと限られた船体にあと一カ月、この不安と緊張でとじこめられるのかと思うと、鴎の自由さが羨ましかった。
ベレンを出て十日が過ぎた。もう二、三日でパナマに着く。毎日、正午には、事務室と船長室に通じる通路の掲示板に貼った地図に航跡を示す赤線が引かれる。昼食を終わった甲板員や機関部員はその地図の前に集まって日本への距離をを目測する。赤線といっても、地球の何万分の一にすぎない海図で、時速八ノットという貨物船の一日の航程を示すのは赤インクの点にすぎない。それでも家族の持つ母国に向かって近ずきつつある感じは、彼らに慰めと期待を与えるのだろう。私もその海図を見るのが楽しみで、赤線が少しでも伸びていくのが悦しく、その前を通るたびに立ち停まって見詰めている。
航海図の赤線は神戸から南シナ海、インド洋、アフリカ、大西洋を経て南米の南端につづき、再び北上してアマゾン河口からカリブ海の島々を転々し、パナマに近ずいている。船員たちは神戸を出てから、もう四カ月になろうとしていた。パナマを経て太平洋に出てからでも、横浜まで、たっぷり一カ月はかかるだろう。
明朝は大西洋側のコロンに入るという夜、いつもは、どこにいるのか分らないコーチが珍しく鉱石ラジオを耳にあてていた。彼は私と殆ど口を聞かなかった。恐らく、他の誰ともそうなのだろう。相手がそうなら、とこっちも頑なになっていた。
彼はボリヴィアから、なぜ、ペルーに出てリマかカリャオから乗船しなかったのだろう。南米の西海岸には、川崎汽船が運航しているのに。
ふと、私は、日光丸がベレンを出た夜、小舟を操って下って来た男がコーチではなかったかという、パズルの解答を見つけたようなものを感じた。もし、乗組員なら、勝手のわからない外国の川を、それも暗闇の中を小舟で来られる筈はないからだ。船長やパーサーは日光丸が遡航したのを私が知らないと思っているのだろうか。そうかも知れない。もし、そうでなければ、コーチがあの夜の男だったと話してくれても良さそうだ。私は化けの皮を剥がしてやろうと、いたずらっぽい着想が湧いたのに快よさを覚え始めた。
コーチがパーサーと一緒に入って来た。
「いよいよ明日はコロンですね」
コーチは珍しく晴々とした口調だった。
「明朝、六時です」と答えてから、
「運河守備隊の検査があります。それよりも運河を通すかどうか、ちょっと心配ですがね。一応、コロンで給油が受けられるか連絡しときました。まだ返答はありません。補給しないとなれば運河を通さないでしょう。しかし、靖国丸には警備だけで検査はなかったようです。もしもの場合には南洋のパラオまで油も水もあります。残念ながら、カルタヘナの綿花は諦めます」
船長はコーチと丁重な口調で話していた。