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パナマを越えて=本間剛夫=16

 私は数日前まで船長はじめパーサーも機関長も、この男を殆ど無視していると考えていた。今日まで船長らとコーチとの対話らしいものを聞いたことがなかったのだが、今日のコーチが鷹揚に備えて船長の話しに合槌を打っているのを見ると、自分の人を見る態度が浅はだかったことが反省された。
 その会話でアメリカの対日姿勢が相当緊張しているらしいことを始めて知らされた。運河警備隊が日光丸に乗り込んで来れば、船員や先客の身体検査が当然あるに違いない。すると、胴巻きはどうなるか。どうすればいいのか。私は食事どころではなく焦った。
 私がブラジル人だとしても、インボイスのない大量のダイアは没収だ。ダイアを持たずに日本へ行くのは不可能だ。私を信じ、選んだ人たちに対して、何としても生きて、この任務を全うしなければならない。船長たちは明日のことについて、何か話し合っていたのかも知れないが、何も耳に入らなかった。気がつくと、食堂を出て行く機関長とコーチの背が見えた。
「私の部屋へいらっしゃい」
 船長はそういって私を部屋に入れた。今日も異臭が漂っていた。この前の時よりも匂いが強かった。
「臭いでしょ。薬湯です。航海が長くなると発疹が出て、かゆくて閉口です。一種の航海病ですな。それには、この薬湯が効くというので、ひまさえあればあびてるんですよ」
 船長は私が眉をひそめたのを見たのだ。そういいながら両手を見せた。両方の掌に無数の細かい水泡があって、軽いかさぶたで腫れていた。
「この通り、いや、つらいですよ。気のせいか、ぬるま湯に浸しておくとかゆがみが遠のくので」
 と船長はカーテンのむこうに入った。
「いいですか。船長の金庫だけは戦時以外には誰も開けられない。国際航海規則です。外国にある大、公使館の治外法権と同じです。でも、こんな時節ですから相手は何をするか分ったものじゃない。ですから、ダイアはあなたに持って貰わなければならない。あなたはブラジルの学生だ。発見されても密輸だけですむ。いいですね。金庫の検査は必ずあると思わなければならない。とにかく、あなたはブラジル旅券だけを身につけておけばいい」
 船長は私に同情をこめた視線を向けた。私は遂に追い詰められた憐れな自分を、冷たく眺める気分で聞いていた。船長がいうのに私と同年、いや、もっと若い青年たちが戦っているのだ。自分も戦わなければ……。それは日本人としての使命だ。もし、ダイアが没収されたら、死以外にない。次第に冷静になっていく自分を頼もしく思った。
 その時、それは正しく天啓のように脳裏を閃光が走って、私は叫んだ。
「船長! この風呂を貸して下さい」
 私は船長の眼の前でシャツをたくし上げ、胴巻をほどいて、それをぐるぐる巻きにして球状にした。続いて旅券をポケットから取り出したが、これは濡れては困る。すると、呆然と私の所作を見ていた船長が「そうだ!」
 と、す早く傍らの抽出しから小さな四角の紙袋をつまみ出した。コンドームだ。船長はそれを口にあてて頬をふくらませた。それを何度もつづけると、ゴムは棒状に伸びて風船のようになった。船長は顔を真赤にして吹きつづけると、ゴムはピンと張って膨張の極限に達した。船長は暫くそのままにして置くとゴムはぶよぶよとだらしのない袋になった。