武井誠さんの死亡を知ったのは、死後2年半ばかり後のことであった。「武井誠」と言っても記憶している人は少ないであろう。しかし、ペンネーム「杉武夫」さんと言えば、かなり多くの人が思い出すに違いない。武井さんが生きている時は、その名を想い出すことは稀であった。死亡されたと聞くと、何かにつれ、その名を想い出すのである。武井さんは文学作品を発表される時、必ずペンネームの杉武夫を用いられていた。そこで私も本文ではペンネームの杉武夫を使用させていただく。杉さんとは個人的な交際はないので、あまり書く事はと思ってペンを執ったが、杉さんらしい話を綴っていたら案外スペースを越えてしまった。
先ず略歴を記しておく。
◎武井誠(ペンネーム 杉武夫)
◎明治42年生まれ
◎北海道蛇田郡出身
◎北海道法政大学師範を卒業
◎1932年ブラジルに移住
◎着伯すると間もなく奥地の日本人植民地の日本語学校に就職する
以下の文は杉武夫さんと二人で会話をした時に所々記憶に半ば留めていたものや、杉さんの知人から聞いたもの、その他新聞の記事に載ったものなどである。
日本語学校に就職が決まった翌日、朝の時間に校長、日本人会学務委員諸氏と細々しい打ち合わせをする。そしてその日は放免となる。職員室を出るときに、さっき新聞の山を見ていたので小使さんに新聞を少し持って帰り読みたいと借入を申し出る。
小使さんは愛想良く受けつけてくれた。自分の部屋に戻り、カーマに寝転んで朝方まで読む。こんな奥地に毎日三種類の新聞を配達させている父兄会に頭が下がる。ここの学校の生徒が日本語を読めるようになるまで教えてやらねばならない、という覚悟を新にする。
暇々に読んでいったら、何時の間にか半年分を読んでいた。新聞はブラジル本位である国際的ニュースも報道されており、文芸欄も二週間に一回は編集されていた。文芸欄は俳壇と歌壇は各自両側の角を占め、沢山の投稿者が上位を狙って競っている様子がうかがえた。植民たちが日曜や祭日書いたと言う小説が時々発表されていた。
努力は相当であるが、テーマの捉え方に不満を感じるものがあった。中には偽作や盗作と思わせるものもあった。こんな作品を放置していたら、コロニアの小説は腐敗するだろう。このままにしておいてはならない、という義務感を感じたものと考えられる。
我々は今のうちに悪の根を抜き取らねばならないと結論し、ペンを持って一文一文を模した「植民文学の確立」を執筆したのである。ここで内容を語るスペースを持たないので、結果だけを述べる。この一文に杉武夫の名で署名し、時報社に投稿した。
受け取った古野菊生は、何気なく封を切り読み始めた。だが驚いてすぐ読むのを止め、杉武夫というのは誰だったかと考えた。しかしそれらしい人物の名は浮かばなかったが、「文芸が長い間待っていたのはこういう文章なんだ」と、そうつぶやいた。
古野菊生は次号予告として『新人文学評論家現れる!』と題して、杉武夫を賛辞をもって紹介する。そして次号にはその全文を掲載すると発表した。「植民文学の確立」は1934年4月10日、同年10月28日に「植民文学について」を発表する。
当時文学作品の発表の場が無かったので、古野菊生がテコ入れをしたのは無理もない。当の杉武夫は古野菊生の賛辞に気をよくしたのは当然であった。文芸評論が杉武夫の得意とするところだ。もちろん一種目に限定しない。創作にも手をつけた。(つづく)
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