腕だめしとして、時報社の主催する『植民文芸懸賞短編小説』に応じてみた。結果は佳作に入ったが、その時の選会は佳作を三篇選んだので、各作者は当惑したに違いない。杉武夫には腕だめしになったかどうか、だが杉武夫は続けて毎年応募した。第二回は第三席を獲得する。
第三回は選に漏れたのか、作品は発表されなかった。第四回は『テーラロッシャ』を以って参加し、第二席に入る。この結果が良くも悪くも、少なくとも腕だめしにはなったであろう。1936年に創刊した『地平線』には創刊号に『ぬすみ』を、第三号『第2号創作読後感』、第6号『イデオロギーの問題』、第8号『S・Lしゆう』を掲載。しかし『地平線』は第9号を以って閉刊となる。
1939年にブラジル政府は日本語教育に対して厳しかったので、事実上、日本語教育は不可となった。教師を職業とする杉さんが失職したであろうことは想像できる。日語新聞社も閉刊したので、日本語を以って業務する人々は皆失業する時代となった。
これからまだまだ苦境に追い込まれるのだが、杉武夫さんが『植民文学確立』と『植民文学について』の二文を書いたのは、先のような意味に要約されたからだと、私は推測している。
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1945年8月に世界大戦は終わった。世界中が自由の到来を予感した。ブラジル政府は日系植民に課していた『××するベカラズ』法を解禁した。日系植民たちは大空に向かって大きな深呼吸をした。深呼吸をしながら「自由というものはこんなにうまいものだったのか」と大空を見上げ、あらゆる階級の人たちは大車輪で活動を始めた。
禁止令に引っかかり発行禁止を受けていた報道陣は、先を競って復刊・創刊を目指して争った。忽ち四、五社の新聞が刊行した。雑誌は三誌が発足した。新聞・雑誌が出揃うと、購読者を奪い合う競争が当然起こる。競争が激しくなるほど、新聞や雑誌はいろいろな趣向を巡らせた催しものをサービスとして提供することになる。
雑誌よみもの社は先端を切って発行したので、常に上位を保っていた。この有利な立場を利用し『よみもの賞』という文学賞を開設した。不安を持ちながらの出港であったが、日が経つにしたがって応募作品は日毎に増えてきて百篇を超過したときは視線を上げたい気分になったという。
結局〆切ったときは百五十一篇に達していた。この数はコロニアの文学界ではレジェンドである。批評陣の感想は数ばかりでなく質においても上回るという評言であった。しかも第二回、第三回と回を重ねるごとに数は上昇線を辿った。まさにコロニア文学界の黄金時代となった。
ここで、文学界に不思議なことが起きていた。そして、そのことに気付いて注目した人もいなかったということである。私がそのことに気付いたのは、1977~78年のことであった。
コロニア文学の黄金時代にあっても、その中にかつて華々しく活躍した杉武夫の名はどこにもなかったのである。杉さんは戦後に一篇の作品をも発表していない。
あれほど文才のある人が、あれほどの情熱を持ちながら、戦後に一篇の作品も発表していないことは不明解である。まさか亡くなられたのであろうかと思っていた。ふと、風の便りというとおり、杉さんはまだ元気で、健在で居られるという話を耳にし、私は心が躍った。
本人が健在であることを知ると、私の疑問は益々肥大化するばかりである。妙な話であるが、私は杉さんと会ったことはない。何時かは会うだろうか、会ったら是非「戦後二十年あまりになるのに、一篇の文学作品も発表しないのは何故か」と私が胸の中で言い続けた疑問を聞きたいものだと切実に思うようになった。知っても知らなくてもよい問題に、どうして私はのめりこんだのか。(つづく)
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