在サンパウロ日本国総領事館(初代総領事・松村貞雄)が開設されたのは1915年7月14日――それから100周年を迎えた今年、記念行事も予定されている。その機会に、戦前から同館に勤務していた重松万太郎さん(1898―1981、佐賀)の珍しい物語を娘の古藤重松艶子さん(81、二世)に聞いた。大戦勃発により交換船で帰国して本省勤務、戦後早々に再赴任して勝ち負け抗争の刺々しい時代に総領事館の最前線に立ち、再び帰国して本省で定年退職するや「終焉の地はブラジル」と再び家族で渡伯し、3度にわたって同館に勤務した。
「父は15歳で家族に連れられて渡伯し、23歳頃に翁長助成さんから『総領事館で働かないか』と誘われて、現地採用で勤務し始めたと聞いています」。つまり、1913年渡伯、21年に同館勤務を開始した。開設されてから、わずか6年目だった。
戸籍班に所属し、コロニアの動静に誰よりも詳しい人物と言われた。41年1月にブラジルが枢軸国と外交断絶を宣言し、外交官は国外退去を命じられたことから、42年7月3日に石射猪太郎大使ら日本政府代表を載せた交換船「グリップスホルム」号でリオ港から帰国した。
「帰国する時に、父は『戸籍を焼かれたら大変だ』と親戚に分けて預けたんです」。いわば重松一族が貴重な戸籍を守り通した功労者だった。
帰国後の戦中、重松さんは本省の欧文タイプ係の主任だった。「欧文をタイプする女性ら40人がいた部署でした。ある時、部下の女性でロシア語のタイピストの書類を、父が数えてみると、どうしても一枚足りないと気付きました。『もしや』と思い、女性警官に頼んでその翻訳者の持ち物検査をすると、足りない一頁が出てきました。その方はスパイだったのです」。戦中の本省勤務もまた緊迫したものだった。
「戦争中は、東京の親戚が疎開した後のうちに住んでいて、そこの押入れには古い本がたくさんあった。手書きの一冊を習字のお手本としてもらい、大事に保管し続けてきました」と『土井晩翠筆古今集』をみせた。
終戦近くに家族は福島県に疎開し、「戦後、石黒総領事が赴任するや、父のもとに『すぐにサンパウロに来てもらいたい』との依頼が来て、52年に家族で戻りました」と振りかえる。戦後移住開始は53年だから、それを受け入れるために前もって再赴任したわけだ。
石黒四郎在聖総領事は51年12月に着任した戦後初の総領事で、翌52年4月に総領事館を正式に再開設し、勝ち負け抗争の余韻がくすぶる難しい時代を潜り抜ける様に、戦後移民受け入れに奔走した。
重松さんは総領事館側のコロニア担当として1954年にサンパウロ市400年祭という大きな節目、〃朝香宮〃(加藤拓治)を名乗って勝ち組から金品を詐取したニセ宮事件、最後の勝ち組系騒動である「桜組挺身隊事件」にも対処した。
(つづく、深沢正雪記者)