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パナマを越えて=本間剛夫=32

 私は正しい判断を述べたと思った。
 しかし、中佐の面を不快な色が走った。中佐は、日本人は世界のどこに住もうと、日本人であることに変わりがある筈がない、と信じているのだろう。アメリカやブラジルの日系二世たちが、父親のそうした古く、単純な考え方の下で、如何に悩んでいるか。とくに、アメリカ生まれの日系人があくまでも日本人としてしか処遇されてない二重の非条理を背負わされている苦悩を日本に住む日本人は知らない。
 幸いに私はブラジル国からブラジル人としてすべての恩恵を受けている。
 私は迂闊にも、このような質問を全く予期してはいなかったのだ。この場合、賢明につくろうべきだったのだろうか。
 「……すると、君は日本人じゃないんだな」
 「いいえ、私は日本人です」
 私は語気を強めていい返した。
 中佐は、私を―日本人ではない―といったことが失言であると覚ったのかも知れない。
 「君は貴重な任務をしてくれたのだからな、日本人に違いない……」
 中佐は前言を訂正した。
 その訂正に力を得て私は続けた。
 「私は日本にいる日本人にできないことをしました。日本が開戦しても日本のためになることをしましす。それは、日本とブラジルの二重国籍者として……。何れか一方のためにならないことは、他の一方の国にどんな利益になることでも致しません」
 そういって中佐の顔を見つめた。
 このとき、初めて日本人とブラジルとが同じ重さで私の心の底に定着していたことを自覚したのだった。
「第二乙種合格! おめでとう」
 暫くして中尉は宣言した。
 検査場のしきたりとして、そこで私は―ありがとうございます―というべきだったのだが、特別な感情が湧かず、中佐に目礼して席を立った。
 中佐にとって、私は危険な左翼分子ではないが、もっと始末の悪い異分子なのだろう。役場の兵事係りは自転車を並べて帰路につきながら、殆ど私と口をきかなかったが、「あなたの態度は大きかったね。ひやひやしたよ。あれは日本じゃいけないんだ」といった。
 私は中尉に対して、少しも礼を失していたとは思わなかった。私の態度に相手が不快を感じたとしても、それは私の感知することではない。
 中村中尉が二重国籍の衛生兵に介護されることに悩む心理は、徴兵官が私の二重国籍を問題にしたのと全く同じ次元であった。日本人の歴史観、国民教育に育った人々にとって、やむを得ぬことなのだろう。
 「午後から、布団の交換だが、自分で出来る者には各自にさせること。中村中尉の熱発がひどいので、額の手拭をひんぱんに取り替えること……」
 私は同僚の上等兵に申し送った。
 布団とはいっても、それは司令部から配給されるから空俵を割いて藁むしろのように拡げたものだ。むしろは濠の中で絶えず落下する水滴のために一日で水気を吸い込んでしまう。敷布は携行天幕を使うから、湿気が直接体に沁み込むことはないが、むしろ弾力を失って板のように固くなってしまう。半数の患者は冷え込んで糞尿は垂れ流しだ。
 このような病棟で、三浦軍曹を除く四人の衛生兵が八十名の患者の手当てを十分に施せるはずはなかった。病衣の洗濯や交換が病棟の衛生管理のために押せ押せになり、病状を悪化させてもいた。