1954年12月4日付パ紙トップ記事《桜組挺身隊一斉検挙さる》の記事中にも《ぬかに釘、重松副領事説得に赴く》との小見出しで、警察署に収監されている同隊18人と数時間にわたって〃懇談〃して、彼らが求める無料帰国の《実現性がないことを諄々と説いた》とある。
いわば総領事館を代表してコロニア問題の一番の矢面に立ち、何度も何度も挺身隊を説得した。そして55年2月3日、桜組挺身隊は総決起して「四十万総引き揚げ」ののぼりを立ててサンパウロ市のセー広場を行進し、市民を驚かせた。
彼らは総領事館に「総引揚嘆願書」を提出した。《丁度千葉(晧)総領事は不在だったので堀領事、重松副領事が彼らの「嘆願」を聴き、いろいろ説得を試みたが、例の如く馬耳東風ただ「日本に帰してくれ」と叫ぶ》(日毎紙同月5日付)。その後も、重松副領事に何度も面会を求めたが今度は断られたことから、3月16日午前11時過ぎ、《十数名の隊員が総領事館に乱入し、居合わせた領事の首を絞め、備品を投げ散らし、あばれ出し、そこに姿を現した重松領事も襲われ、全治一週間の傷を負った》(『陛下は生きておられた』藤崎康夫、新人物往来社、74年、208頁)。
艶子さんも「桜組挺身隊が総領事館に殴り込みをかけた時、父は襲われて背中を傷つけられました」と恐怖の出来事を思い出す。
にも関わらず「父は当初2、3年間と言われて戦後再赴任したのですが、鈴木耕一総領事に『コロニアの生き字引の重松さんがいないと困る。移民50年祭までいてくれ』と頼まれて、結局59年まで駐在しました」という。58年に三笠宮ご夫妻が皇室初来伯されるという戦後最初の周年慶事の裏方を務めた。
艶子さんも「楽しいことも多かったんです。総領事夫人が主催して高岡専太郎夫人、金城大和夫人、羽瀬商会の奥様などの各界のご夫人方が集まった水曜会があった。そんなとこに母も顔を出していましたから」という。
帰朝した後は本省移住班に所属し、日本各地でブラジル事情を講演して回った。64年に定年退職するや、「ブラジルの方がいい」と再び家族で戻った。そこで「ぜひ総領事館に」と誘われ、現地採用組として70歳まで勤務し、74年に勲五等瑞宝章を受け、81年に82歳で天寿を全うした。
72年から総領事館に勤務し始めた坂尾英矩さんに尋ねると、「みんなが〃マンチャン〃と呼んで親しくしていた。穏やかな方で、もう退職されていたが、時々来られてはニコニコして楽しそうにおしゃべりしていった」と懐かしんだ。
重松さんが亡くなった頃から一世を中心に徐々にデカセギが始まり、80年代後半から二世の時代となり、同館は世界で最も忙しい総領事館の一つとなった。デカセギに必須だった戸籍は、戦中、重松一族が必死で守り通したものだった。
艶子さんが大事に保管していた『土井晩翠筆古今集』を昨年、日本の仙台文学館に送ったところ、「永く保存・活用」するとの礼状が10月29日付で届いた。移民が持ってきた「日本の歴史」が、しかるべきところに収まった。
3度にわたって奉職した同館が一世紀の節目を迎えたことを、〃移民領事〃はあの世でニコニコしながら祝っているに違いない。(終わり、深沢正雪記者)
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