日本食堂の先駆け「こけし」食堂店主だった八幡八朗さんが11日午前2時頃、サンパウロ市のクリニカス病院で肝臓ガンの悪化により亡くなった。12日午前、アラサ墓地で埋葬された。子息ジョルジさんによれば初七日、四十九日ミサは遺族の宗教の方針により執り行わない。
八幡さんは1920年1月に広島県呉市に生まれ、神奈川丸で家族と共に22年に渡伯した。家族は平野植民地のあとマクコ植民地へ。八幡さんはリンス商業学校に入学し、ノロエステ民報に勤めた。
戦後はパウリスタ新聞印刷部に入社、59年頃に「こけし」を開店した。東洋街に富士パラセホテル、レストラン「富士の宿」を95年ごろまで経営した。パウリスタ大通り付近にも83年からレストラン「一富士」を開き、05年頃まで経営していた。
そのほか移民80周年記念でパ紙がイビラプエラ公園で大展覧会を2週間開催した折、当地で初めて回転寿司を仮設で持ち込み、その後、常設の回転寿司店をリベルダーデ広場で00年から02年まで経営するなど、日本式の食文化導入に積極的に取り組んだ。
One comment
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リベルダーデ区の人気ものたちが、つぎつぎと逝った。
つけものが旨い居酒屋を経営した、静香さん。日本語版の便利帳を出版したショエーイ出版社長の高橋昭さん。そして「こけし食堂」のおやじ八幡八郎さん。さみしくなるばかりだ。