あゝ!……突然記憶がすっかりよみがえった。昼寝をしたあの場所の光景が目に浮かんだ。脱いだ服をまとめて掛けておいたサランジの枝。それから、大きな石の上に置いた幅広の革帯と、その上に載せてあったけんじゅう拳銃用の細いベルト。
水に入る前に、最後の一服を喫(の)んで小枝の棘に突き刺しておいた煙草の吸殻。まだ燃え尽きないやつから青い煙のリボンが、風のないせいで細く真っ直ぐに上(のぼ)っていた。何もかもが手に取るように見えた。
あそこにある。俺の革帯は、渡りの岸辺に。やるべき事はただ一つ。馬の手綱を弛めて全力で走らせ、あそこに駆けつけることだ。だれか他の風来坊が通りかかる前に。
次の瞬間、わしは馬に飛び乗っていた。それを待っていたかのようにチビは喜び勇んで駆け出した、嬉しそうに、甲高い声で吠えながら――罰当たりな言い方をすれば――まるで、人の言葉を話しているみたいだった!
ほどなく牧場の柵がかぎ鈎型に大きく曲がっている所で、手綱をしぼって馬の向きを変えた。
そこから少し先で、牛の大群を追ってくる連中に出会った。先頭をやってくる牧夫達もかなりの人数で、恐らくあの大牧場で今夜を明かすつもりなのだろう。すれ違う時、お互いに帽子のつばに手をやって挨拶を交わしたが、その何人かは毛皮のポンチョを着込んでいた。わしはその時、二言三言訊いてみたい気持ちに駆られたが……思い直して、言葉を飲み込んだのだった。
それから、わしは馬の背に前かがみになって、腹に拍車をあてながら全力疾駆させた。
チビは唸るような声を上げながら、もうすっかり長くなっている馬の陰の中を走った。
目の前には人影もない道がどこまでも続いている。左手に、目の届く限り広がっている大平原は、穏やかで、青々として、沈みかけた太陽の柔らかい光に照らされている。所どころに見える斑点は牛舎に帰っていく牛の群れだ。右手には、もうすっかり傾いて赤っぽいこがねいろ黄金色の太陽が、今まさに金色に縁取られた雲の中に入ろうとしている。
道路の途中にいくつもあったぬかるみ泥濘は乾いていて、ケロケロ鳥 の姿もない。ときたま、臆病な鶉(うずら)が、高く伸びた牧草の陰で密やかに鳴き交わしている。そして遠くの方には、まるで消えかかる残照の明かりと近づいてくる夜との間をかいくぐるように、一羽のジョアングランデがゆっくりと、ほとんど翼を使わずに――人々が悲しい別れのときには手を振らないのと同じように……――飛んでいる、その白い姿がいっそう真っ白に浮かび上がって見える。
辺りの空気は涼しくなってきた。すべてが静けさに包まれていた。
わしの栗毛は申し分ない俊足の馬だ。そしてチビはもう落ち着いて、舌を垂らし、尻尾をピンと立て、体を少し斜めにして、馬の蹄が巻き上げる埃の中を小走りに走っていた。
日が沈んだ。空の高いところにあしわら葦原の火事のような赤い色が残っていた。それから夕暮れの薄明かり、やがて、夜の闇が下りた。そして、空には星が……星ばかりが……。
栗毛は轡(くつわ)を噛みしめながら、矢のように駆け続け、蹄の響きにあわせて呻き声を上げながらも、どんどん距離をこなしていった。頭の真上では愛らしい「三人マリア」が、まるで生きているみたいに、きれいに並んでさ、まるでわしと一緒に移動しているみたいに見えた……。
わしは子供らが、もしかしたら同じ星を見ているかもしれないと思った。おふくろも親父も、きっと子供の頃に見ていたに違いない。そして、「マリアたち」、「三人マリア」という呼び名も知っていたのだろうと思った。――お前さん。あんたは若いから、毎日面白おかしく過ごしていることだろう。どうか、神さまが護ってくださるように!……心に大きな悩みを抱えているとき、この広い草原の寂しさがどれほど重くのしかかってくるかなんて事を、知らずに過ごせるようにと!
「わしは、もう長いこと泣いたことなどなかった!……ところが、涙が出てきて……、ゆっくりと、忍び足で歩くみたいに、内からこっそりと湧いてくるんだ。まつ毛の上で震えながらしばらく光って……まだ熱いまま、馬の背の動きに揺られて、道の土ぼこりの中にこぼれ落ちる。ちょうど、あの、ハエも蟻っこも目もくれない迷子の雨粒みたいに!……」
その時、まるで日の光が霧雨のカーテンの隙間から漏れるみたいに、ふいに涙の中から、わしの生まれ故郷あたりで歌われている歌の一節が浮かんできた。
唄をうたえば心が晴れる
唄うと悩みもやわら
ぐさ
唄をうたえば死神も
逃げる
唄うと元気も湧いて
くる……(つづく)